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“無執着である”≠“諦める”

※今回は、一つ前のブログ『執着から新しい可能性へ』からの繋がりで書いていますので、そちらを先に読んでみてください。

北風が冷たい夜、広い幹線道路の歩道の上を歩いていると、街路樹の幹の皮が剥がれているのが目につきました。

それをじっと見ていたら、その一箇所がきれいなハート型でした。

「わぁハートだ」と、寒さで縮こまっていた体がほぐれ、私のハートもふわっと暖かくなりました。

 

 

「まぁ、いいか」・・私の口癖です。

子どもたちが話を聞いていない時

洗濯物を地面に落としてしまった時

料理の味がイマイチ決まらない時

そんな時に気づくと「まぁ、いいか」と呟いています。

その時の自分はどういう状態かというと、力が入ってなくて、起きていることに対して“良い”とか“悪い”とかの考えはなく、感情にも怒りやイライラはなく逆に笑い飛ばすくらいの軽さがあります。

そして「まぁ、いいか」でその時自分が望んでいた結果=執着を一度手放す儀式をしているような感覚です。

「まぁ、いいか」と言うことで、「さぁこの後どうしよう」「じゃあ、これはこうしよう」と、次への対処や違う結果に切り替えています。

※“執着”について、一つ前のブログ『執着から新しい可能性へ』で書いていますので、そちらを先に読んでみてください。

 

「まぁ、いいか」で済ませない時ももちろんあります。

自分と関係が近い家族や兄弟・親の問題

自分の思い入れが強く、大切にしていること・もの

これらが関係すること・ものになると、途端に“これでは良くない”と力が入り、感情も過度に悲しんだり、怒ったりし、戦いモードになりがちです。

 

「まぁ、いいか」で済ませられない体験がありました。

先日、夫が部下を怒鳴りつけているシーンに居合わせてしまいました。その時私は「何やってるの?大きい声出しても仕方ないじゃない」と言いながら、その瞬間“こんな対応をするこの人はダメだ”“これは直さなければならぬ”と力が入りました。

そこからは夫との関係が戦いモードに入り、とても「まぁ、いいか」とは言えない状態になりました。相手をなんとかしようとして、“そのままを受け入れる”とは、とてもできない状態でした。

自分との関係が近ければ近いほど、“平常心”を保つことが難しい・・という体験でした。

 

もう一つ、あるお母さんの子育てブログを読んだ時、その中で“それは違うでしょ!”と、自分の中でスイッチが入る箇所がありました。「それは良くない!ダメだ。」と、何かを“悪い”と判断しているスイッチです。私は教育・保育に関しては、想いが強いので「まぁ、いいか」にはなれません。

そのブログの内容は、「自分の理想の子育てを頑張っていたが、頑張るのをやめたら子どもとのぶつかり合いがなくなった・・」と前半は書いてあり、それに関しては“良し”と判断しながら読んでいた私。

でも後半に・・「だから子どもの好きにさせるようにした。子どもは一日中テレビの前に座り、スマホを手放さない日々。でも私はそんな子どもたちを暖かく見守っていこうと思う。」ということが書いてあり、それを読んだ途端「そんなのはダメだ!」と反応した私でした。

そして今でも、その後半部分に関して“良いこと”とは思っていません。

私は「教育・保育の質を上げる」ことに揺らがない自分だと思っていますから、「まぁ、いいか」とはなりません。「まぁ、いいか」としてしまうと、この場合は“諦め”からの言葉です。このお母さんのブログから私に伝わって来たことは、執着していた自分の育児の方法を“手放す”ことができたつもりで、“諦め”になってしまっていることでした。

 

 

自分の子どものこと・家族のことになると“平常心”ではいられなくなりがちです。

だからと言って、“執着することをやめた”“コンロトールしようとする自分をやめた”と同時に、『子どもの育ちへの想い』を放棄してしまうのは“諦め”です。

 

「まぁ、いいか」ということは、それまで握りしめていた自分の執着に“無執着である”という状態なのです。

その握りしめていた執着とは何か?

それは、自分が望む“結果”と“期待”です。

その“無執着”の状態は、大きな方向性としての創り出したい結果・ビジョンまで何もかも手放してしまう訳ではありません。何もかも手放してしまう状態では“諦め”になってしまいます。

方向性やビジョンへ“意図”を持ち続けることが大切です。“意図”を持ち続けることで、自分の方向性やビジョンに向かって行くのです。

その方向性やビジョンを持ち続けることによって、何かを創り出します。諦めてしまえば、何一つ創り出すことはできないでしょう。

 

“無執着”と“諦め”の違いは、“あり方”に現れます。

自分が「どのような“あり方”“存在”であるか?」によって、目の前の出来事が全く違って見えます。

“諦め”のあり方で子どもと関われば、子ども達が何をしようと見て見ぬ振り・・。電車の中で騒いでいる子ども達の横でスマートフォンの画面から目を離さないお母さんをよく見かけます。

「どうせ言ったって聞かないから」「この子達はいつもこうだから仕方ない」と諦めが行動に出ています。

では、“無執着”のあり方で同じ例だとどうなるでしょうか。

“無執着である”とは「注意をしない」とか「子どもに何も言わない」ということではありません。子ども達のそのままの状態を見ていて、自分の子育ての方向性や想いからの行動が表現されることが大切です。

例えば、以前私が電車の中で見たお母さんのあり方が、手放している=無執着と感じた出来事がありました。子ども達が電車の中で騒ぎ出すとさりげなく、「あ!みてみて。あれってさぁ・・」と話しかけました。子どもは「え?なに?」とそのお母さんの言葉で我に返って、お母さんとの会話を楽しみ始めました。そのお母さんは静かなトーンで話していたので、子ども達もその静かなトーンで、穏やかに話し始めたのが印象的でした。“注意をする”という方法ではなく、子ども達の騒ぎを収めてしまいました。

そのお母さんが“子ども達をコントロールしなければ”という思いは手放して、ただ「静かにする」「周りに迷惑をかけない」という明確な方向性から表現された言葉で、穏やかな雰囲気を創り出したように見えました。

 

 

「どうせ」「仕方ないから」という“諦め”のあり方だと、目の前に現れてくる出来事が「無理」「難しい」と見えて来ます。

 

大切なのは、どっしりとした“自分(あり方)”を持つこと。

それでいて柳の木のように風とダンスができるような柔軟さが必要です。

「こうするべきだ」と力を入れて目の前の出来事に向かって行くと、ポキっと折れて“諦め”になってしまうかもしれません。

でも、時には「まぁ、いいか」と一旦“手放し”、そして“創り出したい大きな方向性・結果”への意図を持って、次の可能性を創作する。

こうして日々の人生を歩みながら、自分の器を大きくしていくのです。

 

私たちは知らず知らずに根っこが大地から抜けて、根なし草のように周りに流され、自分の望んでいる方向から外れていることがあります。

常に「私はどういう存在であるのか」=Be(あり方)の自分を確認しながら歩んでいくことが大切なのです。

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