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2015年9月

“愛”と“恐れ”

近所の公園の木に「コナラ」と札のかかった木があります。どう見ても私の知っている「コナラ」とは違います。私の知っている「コナラ」は、葉の色が濃い緑で少しツヤのある、こんもり茂った葉に間に、たくさんのドングリの実を隠し持っているイメージです。その「コナラ」という札をつけられた木は、葉の色は柔らかく、少し繊細なイメージ。

『やっぱり違うよなぁ・・』と思っていた私の横で、小学2年生くらいの男の子が「これコナラって書いてあるよ!本当に本物のコナラなの?!ここにくればクワガタがいるかな?」とお父さんに嬉しそうに話しかけながら通り過ぎていきました。

この「コナラ」にクワガタが来ないことを知ったらがっかりするだろうな・・と、その子が本物の「コナラ」に出会って欲しいと思う私でした。

 

 

虐待のニュースが絶えません。

ニュースを聞く度に、虐待をされる子どもと、虐待をしてしまう母親のことを思い胸が痛みます。

私が保育士1年目に務めた保育園は、虐待が日常茶飯事でした。

0歳児から5歳児までの子ども達が毎朝まっすぐ整列させられてラジオ体操第一をする姿は異様でした。列を乱したり、きちんと体操しない子は、大きな声で怒られたり、突き飛ばされたりすることがありました。子ども達をきちんと整列させられない先生には「ちゃんと叱って並ばせなさい」と放送されました。

それでも言うことを聞かない子どもは、主任や副園長に職員室へ連れて行かれ、目一杯怒られ、おしりを叩かれ・・もっとひどいことに、包丁を見せられて脅された子もいました。

私が担任していた1歳児はイヤイヤ期の真っ只中。嫌がる子どもに言うことを聞かせようと、大きな声を挙げざるを得ない毎日は苦痛でした。

私はそれに反対もできず、ただただ平穏無事に一日が終わることだけを考えながら過ごしていました。

その保育園は、子どもも保育者も“恐れ”に縛られていたのです。

言うことを聞かないと怒られると“恐れる”子ども。

虐待されている子をかばうと自分がいじめの対象になると“恐れる”保育者。

訴えることも考えましたが、訴えたら自分が何をされるかわからないという、目に見えない“恐れ”にがんじがらめになっていました。

保育園の中の世界が全てのように見えてしまうのです。他の世界があることも考えられなくなってしまう…そんな体験でした。

きっと虐待をしてしまう母親も、狭い家の中で子どもと自分だけの、出口がない世界なってしまっているのではないかと思います。

 

 

私たちが地球に存在していることのテーマは“愛”です。

地球には、太陽からのエネルギーが入っています。そして、地球は相対的な星なので、エネルギーも相対的に2つに分かれます。

例えば、1つのエネルギーは「愛」と「恐れ」という2つの側面を持ちます。

私たち一人ひとりの人生の中でも「愛」と「恐れ」の両方を体験することになります。

 

先に書いた、虐待は“恐れ”から来るものです。

他にも、“恐れ”の体験は身近にあります。

・新しいことに対しての行動

「できるかな?」「失敗したらどうしよう」「この先どうなるんだろう」という恐れ

・自分のものを失うこと(大切な人、財産、地位や名声)

「無くなったらどうしよう」「とられたらどうしよう」「自分の人生がかかっている」などという恐れ

・人々や物事や状況を自分と比較し、競争すること

 「負けたらどうしよう」「自分が悪い・自分はダメだと思われたくない」という恐れ

 

このような“恐れ”の体験があるから、反対の“愛”である体験が際立ちます。

・豊かさ、分かち合い、善意、助け合いの体験

 震災等での救済の行動、物質ではない心の豊かさ…

・平和、平安、幸福、喜びの体験

 優雅で穏やかな時間・空間・場…

 

「“愛”のないところには“恐怖”があり、“恐怖”のないところには“愛”がある」

と言われています。

人生の中での出来事や行動は、この2通りの選択の連続のように思います。

先日、階段から落ちて怪我をした人と遭遇し、救急車を呼ぶという出来事がありました。その時の自分を振り返って観てみると、明確に“愛”からの行動でした。その人を助けるという“愛”と“意思”が強くありました。

そして、知らない人だから…という“恐れ”も少しありました。でもその“恐れ”にエネルギーを注ぐこともなく、“愛”からの行動をしているというあり方の私でした。

 

ダライ・ラマ法王が説く『非暴力』は“愛”の行動です。その行動は、“恐れ”があっては成し遂げられないことでしょう。

“恐れ”は人を弱くします。そして外側(見た目)だけを強く見せます。

“恐れ”には、“信頼”がありません。

“恐れ”が敵を作ります。

“恐れ”が依存を作ります。

“恐れ”が、『競争』『暴力』『戦争』の正体です。

 

私たちは地球に“愛”を顕現するプロセスにいます。

私たちは、まだまだ“愛とは何か”ということを、よくわかっていないのかもしれません。

薄っぺらな“愛”ではない、深い“愛”とは何なのか…

一人ひとりが人生の中で様々な体験をしながら、見つけて行くものだと思います。

何を選択するか迷ったときには、「愛であったらどうか?」と自分に問いながら、“愛”である行動を選択する私たちが、世界の・地球の平和に繋がるのだと信じています。



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だからフィルター

新宿駅の人混みを抜け、ホッと一息ついて、駅のロータリーの方へ目を向けると、濃いピンク・薄いピンク・白に近いピンク、3色の花をつけたサルスベリの木がありました。子どもの頃からサルスベリの花が好きな私は、都会の雑踏の中で、一瞬にして癒された体験がありました。

 

 

先日、様々な問題を抱えている親子の話を聞きました。我が子を心配したお父さんの苦しみと悩みの話でした。

その苦しい状況から少しでも抜けられるようにと話をいろいろしていましたが、それを一緒に聞いていた他のお父さんが一言

「親子って言うのは難しいんだよ。親だから、割り切れないことがあるんだよ。」

と言いました。

私はこの言葉を聞いた時、言い訳や慰め、正当化、問題からの逃げを感じました。

そして、『あぁ、また“だからフィルター”だ。』と思いました。

私たちが掛けてしまいがちの“だからフィルター”…それは、

女だから…、男だから…

年をとっているから…、まだ若いから…

太ってるから…、痩せてるから…

お金がないから

忙しいから

仕事だから

などなど…いろいろな種類の“だからフィルター”をかけ、そのフィルターから物事を見ていて、そのままが見えていることは、ほとんどありません。

 

先述したエピソードの「親子だから、親だから難しい」という“親だからフィルター”は、ほとんどのお父さん・お母さんが持っている思考です。

親だから、放っておけない。

親だから、心配。

親だから、子どもの好きにさせておけない。

・・・と。

でも、その“親だから”は、子どもにとって重いこともあります。

そして、“親だから”という言葉を頭につけることで、“親だから・・親として・・どうしたらいいんだろう?”と自分自身を重くすることもあります。

 

 

大切なのは、

「今、自分はどんな“だからフィルター”をかけているのか。」

をキャッチすることです。

「“今”フィルターを掛けている」ということを知ることで、そのフィルターを外すか、そのフィルターをそのままかけるのか、選択することができます。

フィルターが悪い訳ではありません。フィルターから見ているという自分を知ることが大切なのです。

 

 

この“だから”という言葉は、感情と一般論や世間体という考えが入り交じっています。

ここで大切なことは、“親だから”としての感情や考えではなくて、“自分自身”の感情・考えはどうなのか?です。

 

「“親だから”と言っている自分は、どんな感情なのか?」

みぞおちの辺りがチクチクしたり、重くなったりするくらいの心配や不安

はらわたが煮えくり返るくらいの怒り

肩に何かがのしかかる様な責任感

どうしたら良いのかわからないという恐れ

…などがあるかもしれません。

 

「“親だから”と言っている自分は、どんな考えなのか?」

自分の子どもだから何とかしなければ…

普通は〇〇だから…

親であるからには、子どもを導く責任があるから…

親というものは〇〇だから…

などなど、頭の中で概念的に考えています。

 

そして、この“親だからフィルター”を外して、

目の前の子どもの“そのまま、あるがまま”を観て、聴いてみてください。

 

子どもはこの世に生まれたら、一人の人間です。

どんなに小さな赤ちゃんにも、意志があり、人格があります。

3才までが人格形成の時期…と言われていますが、すでに持って生まれた人格があります。

私が保育士になったばかりの時、おむつ替えで子ども達の個性を感じました。

0歳児クラスの約10人の子ども達、どの子にも同じようにおむつ替えをしても、嫌がる子、嫌がらない子…様々な子がいました。

ある時、じっくり一人ひとりを観察しながらおむつ替えをしてみました。

手際よく終わらせてしまうのではなく、じっくりと関わりながらおむつを替えると、それぞれの個性が見えて来ました。

そして、おむつ替えを嫌がる子のほとんどが、自分のやっていることを中断されて怒っている反応に見えました。

その反応に気づいたら、「おむつ替える?」とか「取り替えっこしようか?」などの子どもの気持ちを受け取るような言葉が出て来ました。

そのことで、スムーズにおむつ替えができるようになりました。

それでも嫌がる時は、「じゃあ、あとで替えようね。」と声をかけ、しばらくすると大体嫌がらずにおむつ替えをさせてくれました。

このように、まだ言葉を理解しないように見える0歳児の赤ちゃんにも、大人の気持ちが伝わり、意志もあるのです。その意志を尊重する“あり方”が大切で、その“あり方”が小さな子どもにも伝わるからです。

 

 

自分の子どもでも、子どもは親の所有物ではありません。

子どもにも感情があり、意志があります。

小さな子どもはなかなか表現できませんが、どの子の中にもそれはあります。

どんな気持ち・感情・身体の感覚があるのか?

ということを、私たち大人が観察し、汲み取り、その子どもの中に“あること”をそのままにする…ということが、“あるがまま”であるということです。

 

“あるがまま”を観る・聴くときは、質問攻めにしないことが大切です。

1415才くらいまでは、“感覚”で自分の感情などを捉えます。

それまでは、言葉にさせるということはあまり必要ありません。

言葉にしようとすることで、その“感覚”ではなく、「こう言った方がいいかな・・」「何か正しい答えを見つけないといけないのかな・・」というような“思考”に意識が向いてしまうからです。

 

いろいろな感覚がある。

いろいろな感情がある。

それをただ“ある”と認めるだけなのです。

その感覚・感情は、良いも悪いもなく、ただ存在しています。

 

これは、大人にも当てはまることです。

“だからフィルター”をかけてしまうと、自分自身の感覚・感情にフタをしてしまいます。

“だからフィルター”をかけることで、自分自身のあり方ではなく、“〇〇だから”という、どこかで作り上げられたイメージのあり方になってしまいます。

 

〇〇だから、いや〜な感情がある。

〇〇だから、めんどくさいんだ。

〇〇だから、動揺している。

・・・と、自分の“あるがまま”も認める。

 

 

子どもの“あるがまま”と自分の“あるがまま”で向き合えた時、次のレベルの人間関係が生まれます。

その新しいゾーンで、真っ白なキャンバスにどんな絵が描かれるか?

子どもと自分、そしてその世界を共有する周りの人々によって…

その絵は、今までに見たこともないような、新しい表現でしょう。



Photo


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親子の会話の質

涼しくなって来て、我が家の植木がますます元気になりました。暑さで一度枯らしてしまったミントとバジル、ミニバラ・・。水をあげ続けていたら新しい葉が出て、みるみる元気になり、今では葉がたくさん茂り、花が咲いています。その回復振りが嬉しく、愛おしく、エネルギーを注いだ植木にエネルギーをもらっている私です。

 

 

先日、友人親子のエピソードを聞きました。

子どものK太くんは、就職して仕事をしています。その職場での悩みが尽きないようでした。

ある日、帰宅したK太くんが話を聞いて欲しそうにしているので、テレビを消して向き合って話を聞いたそうです。

「今日、職場で先輩にチラチラ見られて、なんかチェックされているようで嫌だったんだ。それでそっちが気になって、接客がうまくいかなかったんだ。」

という話でした。母親である友人は、

「実際にあったことは、先輩がK太の方を時々見てたってことだね。それに対してK太がチェックされてるとか、評価されてるという風にストーリーを作っているのかもしれないよ。人は何かに反応すると、その反応に対して頭の中でストーリーを作り上げてしまって、事実とは違うこともあるんだよ。」

と話したら

「あぁ、先輩はただ見ていただけだ!チェックされてる訳ではなかったんだ」

というような話になったそうです。

そして次の日、K太くんから携帯にメッセージが来て、こんなやり取りをしたとのことでした。

K太「おれは先輩に評価されているっていう“恐れ”があったことに気がついたんだ。“恐れ”は自分の心の中で作り上げているものなんだね!なんか面白くなって来た!」

母「その通り!!素晴らしい洞察を得たね。いいぞ!K太」

K太「筋トレしてみます!」(自分の心を鍛えるという意味)

K太くんの姿に感動した友人がこのやり取りを話してくれました。

私は日常的にこのような会話ができている親子の関係が素晴らしいと感じました。

 

もうひとつ、他の友人親子のエピソードです。

その友人の子どもは「学校に行きたくない。学校が嫌で眠れない。」と訴えて来るとのことでした。その子は少しこだわりの強い子で、話をはぐらかそうとしても、きちんと向き合わないとその話は終わらないということでした。

そこで友人は、サザエさんやコナンのお話仕立てにしたり、「お母さん相談室です。リスさん今日はどうしましたか?」というように、リスやクマに模した相談室などをしたりしながら、その話を聞いている…ということでした。

子どもの話を邪険にすることなく、戸惑いながらもどう受け止めようかと工夫していることがわかります。

そして、子どもを何かに模して自分を表現させるということは、自分のことだと言いにくい事や深刻になり過ぎてしまう事を、俯瞰して話せる術のようにも感じました。

 

 

この二人の母親に共通していることは、きちんと子どもの声を受け止めようという真摯なあり方です。

子どもにはその子を取り巻く社会があり、そこで様々な体験をします。

何かあった時、何か疑問を感じて子ども自身では持ちきれなくなった時に大切なのは、この母親のようにその思いを受け止めてくれる存在なのです。

“解決する”“答えを出す”という結果が大切なのではなく、子どもが考えるプロセスに寄り添うあり方(Be)が大切なのだと思います。

 

“そのままでいい”“ありのままを認める”と言っても、子どもが実際の社会に出ると、そのままにしておけない状況が出て来ることもあると思います。

その時に大切なのは、何かをさせる・行動を促すこと(Do)でもなく、ただその子の存在(Be)に寄り添うだけ。

 

「仕事がうまくいかない」

「先輩に叱られてばかり」

「学校の勉強がいやだ」

「学校に行きたくない」

これらのことは、その子どもの中にあることです。

その“ある”ことをそのまま受け取ってあげて、そのままにしておく。

それが“Let it be”です。

 

“子どもにそのことがある・出て来た。”

そして、

“自分(親としての自分・教師、保育者としての自分)はどうであるのか?”

“目の前の子どもにとってどういう存在であるのか?”

自分自身を観ることが大切です。

 

もしかしたら、子どもの言うことに反応している自分がいるかもしれません。

例えば「勉強したくない」と言われた時

自分の心の中(内面)で、

“ムカっ!”“イライラ…”

“まったく…どうしたらいいのかしら。”

“いつも嫌なことから逃げるんだから。”

というような感情や考えが出て来たら、それは反応です。

これが出た時に、それをただ出て来たなぁと俯瞰して観る。

反応は反応として脇に置いておくようにします。

反応は出て来るものですから、否定する必要はありません。

いじらずに脇に置いておくということが大切なのです。

 

そして、“私はこの子にとってどうであるのか。どういう存在なのか”(Be)を創り、その自分であるだけなのです。

 

“私は子どもを力づける人です”

“私は子どもの成長を促す人です”

“私は子どもの安全基地です”

というような、自分にピッタリ来るものをシチュエーションに合わせていくつか創っておくことをおすすめします。

 

子どもが「お母さん/お父さん/先生……」と相談を持ちかけて来た時に、その創ったあり方(Be)で話を聞き、寄り添う。

このあり方(Be)が子どもとの会話の質を上げることになります。

 

K太くん親子の会話の中であったように、「自分の心(内面)で作り出しているストーリー」を真実だと思って、出来事を扱っていることが、私たちの日常の中で多々あります。

外側で起きている出来事をどうにかするのではなく、自分の内面の感情・考え・態度を観察することが大切です。

そのことを子どもと一緒に話すということは、自分自身の内面も鍛えられます。

一人ひとりが自分の内面を鍛える筋トレをすることが、平和な世界を創ることに繋がります。

一人ひとりの内面で創り上げているものが、この世界に現れるのですから。



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充分である世界

私は自然の中に身をおくと、心も体も元気になります。キラキラとした木漏れ日を浴びながら、樹々の葉がこすれる音を聞いていると、自分の体も自然の中にとけ込んでしまったような感覚になります。大きな樹のてっぺんにも行ける軽い自分が手に入る様な気がするのです。

 

 

先日、腰痛でカイロプラクティックの先生に施術してもらいました。

痛いから先生に“治してもらう”という気持ちで受けました。

ところが、その施術をしている先生のあり方は、“治す”のではなく“治る”というあり方なのです。

先生は「人は自分で治す力をすでに持っているから、それをサポートしている」というようなことを話してくれました。そして、その先生は私を“治る人”として扱っていることが伝わって来ました。

このことから、“悪い”から“治す”のではなく、ただ“痛みがある”ことを認識し、そして“すでに治る人”という前提で治療をしている先生のあり方を感じました。

その治療を受けている私も“すでに私は治っている人”というあり方に自然になっていました。

“悪いもの”や“痛みのもと”があるからどうにかするのではなく、そのままを認め、ただそれを自分には“治す力がある”と信じられる体験でした。

 

 

これは、子どもに対しての大人のあり方にも繋がると思いました。

世の中には、“何かが悪い”“足りない”という考えの元に成り立っている事や物が多いのではないでしょうか。

一般的な医療だと、“悪い”から“治そう”“取り除こう”または、栄養が“足りない”、運動が“足りない”というように、あの手この手と手を加えて行きます。

そして教育や子育てでも、“悪い”“足りない”から“直す”“正す”“教える”“与える”というようになっていて、子どもはそのままで良いという風にはなっていません。

医療も教育もこのような考えではないものももちろんあります。

人の持つ自然治癒力を信じている医師もいるし、医療もあります。

子どもの力を信じ、引き出すという教育・保育をしている場も教育者・保育者もたくさんいます。

でも、今の主流はまだ前述した“何かが悪い”“足りない”医療や教育です。

 

 

私たち一人ひとりのあり方を見てみると、「今のままで充分・満足」と言える人はどれだけいるでしょうか。

自分の生活、仕事、持ち物、知識・・など、一つひとつをよく観てみると、

もっと良い家に住みたい

もっと最新の家電がほしい

もっとお金があれば・・

もっと頭が良ければ・・

もっと、もっと・・と“足りない”世界に住んでいるのではないでしょうか。

 

以前、こんなことがありました。

近くの街まで片道約50kmという田舎で一人暮らしを始めた時、友だちに「一人でそんな田舎に住んで、不便じゃないの?寂しくないの?」と言われました。

その時の暮らしは、5畳程しかない部屋で布団もなく寝袋で寝起きをし、テーブルは段ボール箱でした。でも、いつも同僚や友だちから新鮮な野菜や果物、お米や海産物などの“お裾分け”が届き、みんなで一緒にそれを食べることが多く、不便さや寂しさなど感じたことがありませんでした。必要な物はすでにあるという感覚で、シンプルな暮らしに満足をしていました。

物は少なかったけれど、“足りない”と思ったこともありませんでした。

 

 

この世の中で存在するあり方は2通りあります。

“足りない”というあり方と“充分である”というあり方です。

そのどちらのあり方を選択するかが、人生の土台になります。

 

“足りない”という土台だと、どんなに物質的に豊かな生活をしていても、どんなに知識や地位を得ても、満足な世界は現れません。

いつも何かが足りず、何かが悪い・・

だから、資源を取り合い、争います。

もっと上へと誰かを蹴落とします。

まだまだと自分を追い込みます。

まだまだ足りない、もっと上へと子どもや人を追い込みます。

“足りない”という土台が、人を追い込んで自殺を生み、戦争を生むのです。

 

すべてが“充分である”という土台の世界であったら、教育も医療もその他食糧等の問題もすべてが一変するのではないでしょうか。

子どもがすでに“充分”であったら、“足りないとこ探しの教育”から“あるとこ探しの教育”に変容していくでしょう。

人には治る力が“充分ある”であったら、医療はもっとシンプルに。

世界の資源が“充分ある”であったら、お金や食糧・物など資源の分かち合いが生まれる。

時間も“充分である”としたら、イライラもなく人間関係も穏やかでいられる。

“充分である”という意識が、世界の平和を創り出します。



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