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“信”という器

先日、公園の暗がりで、たくさんの植木に囲まれひっそりと咲いているあじさいを見つけました。淡い水色のあじさいが、幻想的に浮き上がって見え、戸棚の奥の宝物を見つけたような、嬉しさがじわっと心に広がった瞬間でした。

 

 

先日、『子どもを信じ過ぎてはいけないのでは』という話を聞きました。その言葉の中には、“子どもは未熟で守るべき存在”という事があるようでした。

子どもの遊びを見守る中で、どこまで子どもがやりたいようにさせて大丈夫なのか?どこまで信じればよいのか?という迷いでもありました。

 

以前、肝っ玉母さんという表現がぴったりなお母さんがいました。

町のお祭り会場でのことでした。小さな子ども達がたくさんいて、それぞれ親にしっかりとくっついていたり、親が子どもから目を離さないようにくっついてまわっていたりという様子でした。

肝っ玉母さんの子どもは、2歳くらいの女の子で、ちょこまかと自分の興味の範囲をどんどん広げていっている様子で、徐々に離れて遊び始めました。そのお母さんは、子どもを追いかけ回す事もなく、ただにこにこと自分の子どもを少し離れたところから眺めていました。その様子は、どっかりと肝を据えているようなあり方でした。

しばらくして、子どもが何かを握り、意気揚々と大人達に見せに来ました。何だろうと覗いてみると…乾いて固くなった犬の糞!

周りの大人達は大慌てでしたが、そのお母さんは「あらら。くさいねぇ」と笑いながら対応し、全く動じていませんでした。

 

このお母さんを見て、『子どもをちゃんと見ていない』という人もいるでしょう。

でも私はこのお母さんの動じないあり方を見て、「すごいなぁ、私もこういうあり方を手に入れたい」と思いました。

子どもを放っているのではありません、子どもを“そのまま受け入れている”という様子でした。

ただ、その子どもを信じているというよりは、“子どもの力を信じている”のです。

 

子どもは大人が思いもしないことをします。大人にとって、やってほしくないことが多いかもしれません。

雨上がりに歩いていると水たまりに入っていく

ちょっとした段差に上がり、その上を歩きたがる

棒を振り回しながら歩いたり、人の家の柵を棒でカンカン鳴らしながら歩く

・・など。

このような、ちょっとしたいたずらを子どもはしたがるものです。

子どもはいたずらなどとは思ってなく、ただやりたいことをやっているだけなのです。

小さい頃に、いたずらをして隣のおじさんに怒られた…というような経験が誰にでもあるのではないでしょうか?

怒られたり、怪我をして痛い思いをしたり、楽しい、嬉しい、怖いなどの様々な経験を通じて、いろいろな分別や知恵をつけていくのが子どもです。

そして、その時々に子ども自身の力を使って、乗り越えていくのです。

 

でもその子どもの力は、その年齢によって違います。赤ちゃんがそのままハイハイしていたら道路に出てしまう場面で止めない人はいないでしょう。

本当に危険な場面ややってはいけないことなど、その時の子どもに必要な手助けや助言は必要です。

 

“子どもの力を信じる”というのは、大人が今目の前の子どもの力をきちんと認識できていることが大切です。それには、大人の観察する力が必要となります。

今、目の前にいる子どものそのままを観て、聴いて、今どんな成長をしている時なのか、どんなことを学んでいる時なのか、を認識している大人がいることによって、子ども自身が自然に自分を認め、自己承認・自己肯定感を持つことに繋がります。

 

 

“子どもの力を信じる”とは、子どもを丸ごと受け入れられる“信という器”があるということです。

“信という器”を手に入れた人が地球上に増えていけば、子どもだけではなく、人間同士の存在に“信という器”が土台となって、平和な世界を創れるのではないでしょうか。


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