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2015年6月

それぞれの役割

以前湖畔でキャンプをした時、周囲が明るくなり始め、朝日とともに目が覚めて、みんなが起きる前に散歩にでも行こうかと思っていた、その時でした。

ドドドドド・・・

テントのすぐ近くで工事でも始まったかの様な音。それは、クマゲラという大きなキツツキの樹をつつく音(ドラミング)でした。

びっくりして飛び起きた人たちがテントから顔を出すと、キョキョキョ・・・と鳴きながら遠くの山の方へ飛去って行きました。そして残ったのは爽やかな風と静けさでした。

今朝、家の窓を開けた時にサァ〜っと吹いて来た爽やかな風の中に、あの時の驚きと共に感じた風が私の中に呼び起こされました。

 

 

先日、知人の男性から「どうして女の人は色々なことに気づくのか?男にはない、第六感が働いているように感じる」という話をされました。

確かに、女性は周囲の状況を一瞬で察知し、気配りをしたり、異変を感じたりすることが多いようです。

ヒトが地球に生まれた時、男(オス)は狩りをし、家族を養い、女(メス)は子どもと他の仲間を守るという役目があり、そこから“男脳”と“女脳”の違いがあるという話を聞いたことがあります。

 

また別の日に、新聞で男性タレントが書いた育児の記事を読みました。その記事から伝わって来たことは、単なる“イクメン”ではなく“子育てをしている父親”という、真摯に子どもを受け止めている姿でした。

その記事は、子どもと真っすぐに向き合い、子どもの成長と共に生じる心配事に対しても“心配する幸せ”という表現をしており、子育てを通して自分と妻が成長している…という内容でした。

 

今、男性が子育てをするということが注目されている反面、その男性の子育ての仕方にイライラしたり、反発を感じている母親がいるという話もよく聞きます。

その母親に意見を聞くと夫に対して、「余計なことをする」とか「嫌なこと(便の時のおむつ替えなど)はしない」などなど…

母親がして欲しい通りにはやってくれない、子どもの状態が良い時や夫が関わりたい時だけ関わる…などという、物足りなさがあるのではないかと思います。

 

確かに“イクメン”を語る父親の言葉を聞くと、「かわいくて仕方がない」「おもしろい」などと、「子どもにイライラしてしまう…」というようなネガティブなコメントはほとんどありません。一方、母親の言葉の多くは、「ついイライラしてしまう」「早く!と急かしてしまう」という日々の生活に余裕を作れず、焦りの言葉が多いように感じます。

 

女性は感情のエネルギーに敏感です。以前にも書きましたが、母親の感情体(感情のエネルギー)は子どもと繋がっているので、子どもを自分の所有物のように感じがちです。

ついイライラしたり、子どもに対しての“こうであるべき”という考えが強く、過保護になる傾向があるように思います。感情の反応がダイレクトに現れてしまうのでしょう。

 

父親は、少し子どもとの間に距離があります。なので、子どもの一つひとつの行動に過度に反応することはなく、「かわいい」「おもしろい」と客観視できているのでしょう。

男性は感情を表現することに抵抗がある…とも言います。自分の感情を表に出すことによって“子どもとエネルギーが繋がってしまう”“自分と子どもが一緒になってしまう”ということが起こりにくいのだと思います。

 

 

人生の中で大切にしていることや関心事は、人それぞれ違います。

その自分の大切にしていることを現実化するために、

パワーで周りを動かす事が得意な人

理論武装が上手な人

人の意見を丸く治めるのが得意な人

 

場を和ませる人

など、その人が“大切にしていること(コミット)”によって特徴づけられ、あり方や行動として現れて来ます。

それが、現実社会でのそれぞれの役割となります。

 

父親の役割、母親の役割、先生の役割、保育者の役割、隣のおばさんの役割、近所の八百屋さんの役割…など、子どもに関わる大人それぞれの役割が現れている社会の中で、子どもが成長することが大切。

“何にコミットするのか”“どんな人になりたいのか”という子ども自身の探求の手助けとなるのです。

 

大人自身が“何にコミットするのか”“何にコミットしているのか”を知る為には、やはり自分を観察することが必要です。

夢中になれることは何か?

情熱を燃やしている事は何か?

これだけは譲れないというものは何か?

という自分の興味や関心を観てみてください。

日々の生活の中で、自分の行動を引き起こしている“何か”が自分のコミットです。

それを見つける事で、自分の役割を承認することに繋がり、周りの人との役割分担を受け入れられるようになるのではないでしょうか。

 

 

“地球環境を改善したい”というような大きなコミットでも、一人ひとりが自分の役割として少しずつ行動していったら、地球の環境を改善して行くパワフルな第一歩をみんなで踏み出せるのではないでしょうか。

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“今”を生きる

雨の日に自然の中を散歩するのが好きです。木々の緑が雨に濡れて鮮やかに輝き、落ち葉一枚一枚の茶色や黄色、赤などの色がよりくっきりと目に飛び込み、植え込みに蜘蛛の巣が雨粒をまとい繊細なレースのよう…そんな一つひとつを見つける度に自然の美しさにうっとりします。

雨の日の散歩という楽しみがあることに幸せを感じる私です。

 

 

雨の日というのは、子どもも大人もなぜか落ち着かず、お互いにイライラしている…ということが多いように感じます。「低気圧のせいで体もだるくなるからだ」ということも聞いたことがあります。

また雨の日に限らず、自分の中にモヤモヤがあり、なかなかそこから抜け出せない…ということがあるのではないでしょうか。

 

例えば、“上司に言われたことに言い返せなかった”とか、“友人に言われたことが心に刺さったけれど、何でもない振りをしてしまった”とか“思いもよらない言葉をパートナーから言われた”“子どもにきつい言葉を投げてしまった”など…きっかけは日常の中でたくさんあります。またきっかけすら見つからず、ただモヤモヤしている時もあるでしょう。

 

モヤモヤした状態の時というのは、何もかもが上手く回らず、家族にきつく当たってしまったり、目の前の仕事が手につかず、なかなか進まなかったりと、こんなはずじゃなかった…というようなことが多くなりがちです。

 

モヤモヤしている状態のほとんどは、過去や自分の考え・感情に捉われている状態です。

過去に言ったこと、言われたこと、自分の思う通りに行かなかったことや「ああすればよかった…」という考え、押さえつけた怒りや悲しみ、自分の無力さや誰かのせいだという原因探し…などなど、こういったことに捉われてしまい、自分の頭の中でグルグル考えている状態です。

 

こんな時は、目の前に見えるものが灰色っぽく視界は暗く狭くなり、体の倦怠感や無気力さを感じ、生き生きさやパワーもなくなるでしょう。

心の状態が、実際の生活に及ぼす影響は大きいのです。

 

そんな時は、“今”の自分に目を向けることが、モヤモヤから抜け出す第一歩です。

今、自分は過去のこのことに捉われているなぁ。

今、自分は怒っているなぁ。

今、自分は自分を哀れんでいるんだなぁ。

今、自分は〇〇さんを責めているなぁ。

今、自分はあのことを後悔しているんだなぁ。

と、今の自分を観察し、それを受け入れるのです。

そういう自分が今いる。ただそれだけ。

“変えなければ…”とか“自分はダメだ”という風に、それをいじらないことがポイントです。

そして、イメージの中でそのモヤモヤをポイッと、自分の頭の上の方に投げてしまう…

モヤモヤが出て来たらポイ、出て来たらポイ…としているうちに、2日もすれば、捉われていた過去のことすら消えてしまうでしょう。

 

モヤモヤを頭の上の方にポイと捨てた後、“今”目の前にあること、起きていることに集中してみてください。

今、目の前にある花や木を見る

今、目の前にいる子どもの姿をそのまま見る

今、やるべきことをただ淡々と取り組む

例えば、淡々と夕食の支度をする、淡々と掃除をするなど…その時に頭の中でモヤモヤをグルグル考えてはダメです。

“今”を体験している自分のままで。

“過去”は“過去”に置き、ただ“今”に自分の意識を向けるだけなのです。

1秒前のことは、すでに過去です。

一瞬、一瞬の、これが“今”です。

 

子どもは2歳くらいになると過去の出来事を記憶するようになります。

記憶は過去のこととしてあっても、子どもは“今”を生きています。

過去のフェイルターを通して“今”を見ているのは、私たち大人です。

いつもいつも、“今、この瞬間”を生きていたら、全てが新しいものとして世界が現れて来るのではないでしょうか。


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意図と意思

池に睡蓮の花が咲く季節となりました。透き通ったピンクの花や真っ白い花が丸い葉の横からそっと顔を出すように咲いています。その花びらはまるで陶器のようで、思わず触ってみたくなります。

そんな睡蓮の咲く池のほとりで、「きれいだね〜」と呟く私に「きれいだねぇ」とその時一緒にいた子どもが答えてくれました。その子の目も睡蓮の花と同じように透き通っていました。

 

 

先日、幼稚園実習に行って来たばかりの幼児教育を学ぶ2人の学生の話を聞きました。自分が子ども達の前に立って保育するという実習で、それまで見て来た先生達がやっていたことをやってみたが上手くいかず、大変だったとのことでした。

その実習先では、給食の時間に子ども達を静かにさせるために、「ねむれ〜ねむれ〜」と音楽を聴かせながら、テーブルに伏せて眠ったようにさせる…ということがあるようでした。

それが上手くいかず、自分も早く先生のようにできるようになりたい…と言っていました。

 

この話を聞いて、ちょっと問題に感じた点は、その学生達が“やっていること”に目が向き、肝心の子ども達へ対する視点“何を伝えるのか”“何を意図しているのか”が抜けていることです。

ともすると、こうした実習の中で、これから保育士や幼稚園の先生になる学生達に自分で考えさせることなく“良い”“悪い”をノウハウで植え付けてしまうのではないでしょうか。

静かにさせることが良い

棒を持って遊ぶのは悪い

一斉に揃った活動が良い

保育者の言う通りにする子どもが良い子

・・・など

大切なのは、表に見えている行動(Do)や結果(Have)ではなく、保育の質 (Be)なのです。

 

子どもを“静かにさせる”ことが大切なのではなく、“静かであることの心地良さ”が伝わることが大切なのです。

それには、保育者自身が明確な“意図”を持っていて、保育者自身の“今”の静けさが子どもに伝わるということが必要です。

 

集団保育では、きちんと保育者の話を聞いてもらう必要がある場面もあります。

例えば、危険が伴う時…先ほどの給食の配膳の時間では、熱い汁物をこぼしてやけどをしたりしないようにする必要があり、野外保育では、危険個所ややって欲しくないことを伝える必要もあります。

大切なことを伝えるという場面では、保育者自身のあり方から来る意図が土台にあり、その手段として、眠る真似をしたり、手遊びをしたり、絵本を読んだり、変顔をしたり…と保育者の腕の見せ所となります。

 

 

数日前、街中で3〜4歳くらいの子どもが大きな声で泣きながら、母親に対して何か怒っている場面を見かけました。

その子は「ばか!ばか!」と言いながら、母親を持っていたカバンで叩いていました。母親は静かに何も反応することなく、ただその子の手を引いて歩いていました。

そして信号で止まった時に、母親が子どもに何かささやいていました。それは、叱るという様子ではなく、諭すという様子でした。子どもはそれを聞いて、また「やだ〜!」と怒り出していました。その後も母親は静かにスタスタと歩き、その後ろを子どもが文句を言いながら歩いて行きました。

 

反応で自分の感情をぶつけることなく、静かなあり方のお母さんの姿が印象的でした。もちろん、顔は険しく、「まったく…」と言葉が出て来そうな様子でしたが、それでも毅然と振る舞い、子どものわがままに振り回されていないという姿でした。

たぶんこのお母さんには何か伝えたい“意図”があったのだと思います。

何かを“買わないよ”とか、“もう帰るよ”とか、何かを“しないよ”とか…

大げさな“意図”ではなく、場面場面で大人が示す小さいけれど明確な“意図”が必要です。

 

 

大人は子どもをどう躾けるか・・というように考えがちですが、“何を伝えるか”という“意図”を持つことが必要なのです。この“意図”が明確であれば、伝え方はどんな方法でも良いのではないでしょうか。何も言わずに伝える…ということもできるのです。

そして、“意図”を伝えるということは、“意思”の力も必要となります。

“意思”を持って、根気よく伝える、毅然と伝える、伝わるまでただ伝える…というように、これだけは譲れないということが“意思”の力です。

状況・環境・気分ですぐ変わってしまうような“意図”は、子どもはすぐに見透かします。

大人自身が“意図”を知るには、自分への観察しかありません。

今、何を大切にしたいのか、自分は。

今、何を優先させたいのか、自分は。

今、何を子どもに伝えようとしているのか、自分は。

・・と、自問自答を繰り返すことで、今まで見えていなかったような、自分の姿が見えるようになってくるでしょう。

 

私たち大人一人ひとりが、明確な“意図”を持ち、“意思”の力を持っているという、そのあり方から子どもは影響を受けて育ちます。それが、昔から言われている“子どもは親の背中を見て育つ”ということなのだと思います。

 

“意図”とは方向付けされた“意思”のエネルギーです。

その“意図”と“意思”の力が、社会や世界を動かすパワーとなるのです。

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場を育む

先日公園で、ヤマモモの木がたくさんの実をつけていました。赤く熟れている実が枝の先にたくさんぶら下がり、今にも落ちそう。採れるかな…とワクワクしながら、近づくと、木の下には落ちた実がいっぱいで、甘酸っぱい匂いがしていました。木になっている実を採ろうと夢中になっている私の周りには、期待の眼でキラキラ輝いている子ども達がいました。その様子は、まるでツバメの雛。親鳥の気持ちを知ったような気がした私でした。

 

 

子どもの中には、大人の顔色を見ながら過ごしている子がいます。

先日、「この人はどういう人かな・・」というように顔色を見ながら、徐々に近づいて心を開いて行く…という子に会いました。実際の距離感も、少しずつ縮めて来るといった様子でした。

私はその子のペースで距離を縮めて安心してもらおうと、私から急に近づくことはせず、その子が気を許して来るのを待ちました。そして、徐々に実際の距離と心の距離も近づいていきました。

 

子どもが「この人は大丈夫かな」と様子をみるということは、自分の身を守るための動物的な本能の現れです。

その動物的な本能が基づいているものは、“生存を脅かされる恐れ”です。

 

子どもの中には天真爛漫で大らかな子がいます。このような子は、誰にでもすぐに心を開き、仲良くなってしまう様なところがあり、“恐れ”のみじんも感じません。

その子どものベースには“安心”があります。

 

“恐れ”がベースの子どもと“安心”がベースの子ども…どうしてこのようなベースの違いがあるのでしょうか。

もちろん一人ひとり持って生まれた気質もあり、“恐れ”がベースになっていて色々なことに敏感な子どももいます。

親もその子どもの様子に不安(恐れ)を抱き、そうした親の不安(恐れ)がまた子どもに共鳴して、不安なエネルギーの循環が起きているということもあります。

 

“恐れ”と“安心”のベースを作っているのは、大人のあり方です。

子どもにとって、大人との関わりの全ての体験が、子どもの世界を左右します。

“何をした”“何を話した”ということよりも、世界への影響が強いのは“あり方”なのです。

 

子どもが寄って来ない、子どもを寄せ付けないような人がたまにいますが、そうした人を見ると、“子どもとどう接したら良いかわからない”“全く子どもがわからない”というような、不安や恐れを感じていることが見て取れます。

このような“不安・恐れ”から来る大人のあり方を子どもは察知するのです。

 

『おしいれのぼうけん』という絵本を読んだことがありますか?

保育園での先生と子どもの関わり方がよく描かれている絵本です。

そこに出て来る先生は、“子どもを自由にさせると大変なことになる”という様子で、子どもと戦っているようなあり方です。

大人がこのようなあり方だと、“大変なこと”にならないように、「静かにしなさい!」と叱りつけたり、「鬼が来るよ」と脅したりする関わり方になります。そして、静かにならないと一人の目立つ子を目一杯叱りつける。他の子はそれを見て、自分は叱られないように、うまくすり抜ける“技”を手に入れる…というようなことが起こります。その“技”が『顔色を見る』ということです。

 

大人の“静かにさせなければ”という強迫観念が、子どもの成育過程で“気をつけないと良くないことが起こる世の中なんだ”というような“恐れ”のあり方を身に付けさせてしまうのです。

 

 

“安心”がベースの子どもは、自分が愛され、受け入れられている安心感があり、その子どもが本来持っている力・感情・考えなどを安心して出せます。

その子どもには“恐れ”がない“安心”の世界が広がっているのです。

 

“安心”の世界をどう創るのか・・

それは、大人自身が“安心”することなのです。

 

大人自身に“不安”や“恐れ”が出て来た時に、まずは気づくこと。

「自分は今、何かに不安を感じているなぁ。」

「“大きな声”“泣き声”“周りの人の目”に不安を感じているんだなぁ。」

このようにこの瞬間の自分を認めることから始まります。

誰でも不安は出て来るものです。

ポジティブシンキングのように、プラスのことだけ考えようとすればする程、マイナスな考えから離れられなくなります。

“不安”“恐れ”は、現実にあることではなく、単なる反応です。

勝手に出て来る“おなら”のようなもので、放っておいたら消えてなくなってしまいます!!

 

そして、また“不安”“恐れ”が出て来た時には、

今、自分は不安・恐れを子どもにぶつけていないだろうか?

今、自分は不安・恐れから言葉を発していないだろうか?

と自分を観ることが効果的です。

 

この練習をしていく中で、“安心”と“平和”が見えて来るでしょう。

その大人の“安心”の場には、ありのままで、安心して力を発揮している子どもが現れてくるのです。

その子ども達によって、天真爛漫でおおらかな場である世界が創り出されるでしょう。

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観る目と聴く耳が創り出す場

英語の童謡で「rain rain go away…♪」(あめ、あめ、あっちいけ…)という歌があります。先日、雨の日に自然とその童謡を口ずさんでいた自分に気づきました。その日は雨がジトジト降り、ムシムシして不快に感じていました。

雨空を見上げ、雨粒が落ちて来るのを楽しんでいる時は、日本の童謡の「あめ、あめ、ふれ、ふれ、かあさんが…♪」と雨を楽しむ歌が出て来ます。

鼻唄がその日の気分で変わると気づいた時、逆に鼻唄で気分を変える事もできると思いました。

 

 

“学年ビリだったギャルが、慶応大学を現役で合格した”という本を読みました。母親と塾の講師がこのビリギャルの力を信じ、本気で彼女の力をどう引き出すかと、様々なアプローチを試みている姿が描かれていました。

テストをしても、問題の言葉の意味すら理解できないというビリギャルの学力は、高校2年生の時点で小学校4年生程度だったとのことです。でも、「挨拶がすぐに出来た」とか「イメージは掴んでいる」などという、ほんの少しの肯定的な可能性をこの講師が見い出し、それを誉めて、楽しく学力を伸ばしている姿に共感を覚えました。

 

私たちは、何か一つの問題点があると、それをどうにかしようとしがちです。

身近な例を挙げると、よく転ぶ子どもに「ほら、転ばないようにね」と声を掛け、転ぶと「ほら〜言ったじゃない」となります。そして、「うちの子は運動神経がない」とか「そそっかしい」と、決めつけてしまう…という事が多いのではないでしょうか。

 

物事は1つの角度からだけでは判断できません。多角的に捉える必要があります。

例に挙げた“良く転ぶ”という要因はたくさんあります。

身体的な要因(内股で自分の足につまずく、X脚で膝がぶつかる、寝不足、視力が弱い)

外的な要因(靴や衣服が合っていない、道がでこぼこしている、坂道)

精神的な要因(置いて行かれたくない・負けたくないなどと焦り易い、注意が他のものに向き易い)

成長的な要因(走れるようになったことを本人が喜んでいる、転びながら体幹が育つ時)

などなど・・他にもあるかもしれません。

 

大切なのは、その子どもの特性をよく観るということなのです。

表面的に見えていることは、『よく転ぶ』ということ。それは、結果なのです。

表面に出ていない、裏側の現象や質をよく観察することが、大人にできることです。

今、この子はどんな体の動きをしているのか?

今、この子はどんなことに興味を惹かれているのか?

今、この子はどんな気持ちなのか?

今、この子はどんな成長をしている時なのか?

 

今、目の前の子どもの姿を観て、聴く、と同時に自分を観察するということが大切なのです。

今、自分は何を感じているのか。

今、自分は何を考えているのか。

今、自分は何を言うのか?

今、自分は何を言わないようにするのか?

今、自分はどう関わろうとしているのか?

 

子どもを観ている時、同時に自分の今のあり方を観る…ということが大切なのです。

 

間違い探しのような目ではなく、愛情を持った温かい目

言う事を否定するような耳ではなく、愛情を持った温かい耳

それが今あるだろうか。

その目と耳で、子どもを観察したときに、子どもの中に可能性の光を観るのではないでしょうか。

 

 

観察が大人の解釈に基づいているのではなく、子どもの姿、そのままを捉えられるようになると、子どもと一緒に同じ体験をしている自分に気がつくかもしれません。

文字通り、“自分の事のように”子どもの体験を体験している・・・

子どもが転んだ時に出て来る言葉は「あ〜いたい、いたい。痛かったね。」という、その子どもの痛みと共感した言葉が出て来るようになると思います。

 

様々な出来事は、一方向だけで成り立っている訳ではありません。

自分、子ども、その他の人々、それらを取り巻く環境…全てを含む“場”の中で起きています。

“場”で起きる出来事は、自分を含めた全ての事が影響し合っているのです。

 

その事を私たち一人ひとりが認識し始めると、自分個人の問題だけではなく、地域社会、日本、世界、地球…などの問題も自分のこととして見えるようになり、“自分さえ良ければ”という考えがない世界になるのではないでしょうか。

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見る目と聞く耳

ベランダのミントが梅雨の晴れ間の陽を浴びようと、葉っぱの一枚一枚を目一杯広げていました。まるで背伸びをして「もっともっと!」と何かをねだる子どものようで、愛おしく感じた私でした。

 

 

ある本に『今は大事な情報の把握が困難な世界だ』とありました。

世の中はたくさんの情報で溢れていますが、自分が本当に欲しい情報を掴む事はなかなか困難です。大量の情報を一つひとつ吟味するには、相当な時間と労力を必要とします。なので、人は瞬時に読むか、読まないかを判断するということです。

では、私たちはどういう判断で「読むか・読まないか」を決めているのでしょうか?

 

例えば、私が“幼児向け英会話”という情報を得たいとしましょう。それには、2つの観点があります。

1つは、幼児期に英会話を始めることは良いという観点。

もう1つは、幼児期に英会話を始めることは良くないという観点です。

例えば、1つ目の観点で、情報を調べると、それを裏付ける情報が集まるでしょう。『早ければ早い方が身に付く』とか『発音がネイティブスピーカーのようになる』というような、メリットがたくさん目につくと思います。

もう1つの観点で、情報を調べると『子どもが混乱する』とか『母国語(日本語)に影響が出る』というような、デメリットが目につくでしょう。

 

大切なのは、“今、自分はどんな観点を持っているか”ということなのです。

子育てに関する情報を見る時も、「自分は誰か?」「自分は何を大切にして子どもを育てる人であるか?」ということを自分自身で知っていること…それは、自分で創った基準(器)を持っているということなのです。その基準(器)を持っていることで、それに合った情報が自然と入って来るようになります。

 

そして、もう1つ大切な事は、自分が“目にするもの”“耳にするもの”に責任を持つことなのです。

私たちはほとんど無意識のままに、様々な情報を目にし、耳にしています。

その情報一つひとつに、責任を取り始めるようになると、見聞きした情報をそのまま鵜呑みにするのではなく、情報を取捨選択することができるようになります。それが、自分の見る目と聞く耳に責任を持つということです。

 

世の中の情報は、人の噂話だったり誰かの解釈だったりと真実とは違うこともあるのです。

それらを見極める私たち一人ひとりの認識力が必要です。

その認識力は、実体験から得られます。

体験してみてどうだったか?どう感じたか?

その体験なくしては、認識力は得られません。

 

例えば、一つのドーナツを食べてみて、「もう少ししっとりしている方が好きだな」とか「ちょっと甘すぎる」という評価が出て来るのは、他にもドーナツを食べたという体験があるからなのです。

いくら“甘くないドーナツ”と誰かが説明していても、自分が“甘すぎる”と感じたら、その感じたことが自分の認識になります。

 

 

良い情報も悪い情報も、本当も嘘も、入り混じっている今の世界。

自分の見る目と聞く耳を鍛える必要があるのかもしれません。そして、自分で認識するということが大切です。

 

自分の基準(器)から、必要な情報が入り、揺らがない軸を手に入れることで、見る目と聞く耳に責任が取れるようになるのです。

そこで初めて、自分の足で歩くという人生が手に入るのではないでしょうか。

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新しい時代の変化

朝、猫背になっている自分に気づき、息を吐きながら、胸(ハート)を開いて深呼吸した瞬間のことでした。

窓の外に見える、桜の樹の梢でキラキラと緑の葉が光を跳ね返しながら、踊っているかのように風に揺れている…それが目に飛び込んで来て、その風とダンスしている葉っぱの愉しさが私にも届きました。自然とエネルギーが繋がり、気分も爽やかになった瞬間でした。

 

 

先日、あるフリーペーパーにイクメン特集がありました。数人のパパさん著名人のコメントなどが出ていました。中には会社のイメージアップのために育休を取ったという人もいて、時代の変化を感じました。

昔は“育児は女の仕事”というように、家庭はお母さんに任せ、お父さんは仕事をして、一家の柱であるという象徴的な存在でした。

今は、イクメンブームからお父さんの育児参加が、定着してきたように感じます。子どもを前後に乗せて自転車を漕ぐお父さんの姿もよく見かけるようになりました。家庭を優先することが当たり前になったお父さんが増えて来ているのでしょう。

 

これは、時代が変化していることの一つの現れです。

地球は、今まで2000年間続いて来たうお座星団のエネルギーの影響を受けていた時代に終わりを告げ、今は水瓶座星団のエネルギーの影響を受け始めています。

うお座の時代では、個人が頑張って、お金や物を得る事に力を注ぎ、一人のリーダーに他の人が従うという形で物事が動いて来ました。

水瓶座の時代は、今まで追いかけて来た外側の事物(お金や物・名誉など)ではなく、内面の喜びや精神性の成長の喜びを大切にし、その達成が喜びである人生というように変化してきています。

新しいエネルギーに変化していることによって、世界の色々な分野…例えば、経済・教育・政治など、今までの古いやり方では上手くいかなくなっています。そして今、世界中で起きている様々な事象は、古いシステムが機能しなくなっていることの現れです。

この激動の時代では、私たちの身近にも様々なことが起きて来ているでしょう。

今まで私たちが“こうだ”と思っていた価値観や概念を捨てる時が来ているのかもしれません。また、自然に変化している自分に気づくかもしれません。

 

子ども達はすでに新しいエネルギーに反応しています。なので、古いやり方や古い教育などに対して居心地が悪く、抵抗する子どももいます。

“育てにくい子”という言葉を聞く事がありますが、新しいエネルギーに反応している子だからこそ、古いやり方にしがみついている大人には理解が難しいのでしょう。

それに対応する為には、新しい時代を受け入れようと意識することです。

そして、それぞれの大人が日常生活の子どもとの関係の中で、頭の中にある古いやり方をしようとしている自分に気づくことが第一歩です。

今、目の前で起きている出来事や、今、目の前に立っている子どもを、新しく初めて見るというように、見てみるのです。古いフィルターをかけることなく。

古いフィルターから見る世界は、「もっとこうなったら・・」「もっとこれがあったら・・」と、“ないもの探し”の世界です。“あるもの”が見えることなく。

でも、古いフィルターを外してみると、「あぁ、これもあった」「あれもある」という、“ある”に目が向き、豊かな世界を体験するようになります。

 

古いフィルターを外すには、「もっと・・」と考えたその瞬間、これは古いフィルターだな・・と認識する。そして、頭の上からその出て来た考えを後ろへポイッと投げてしまう。

その練習をしているうちに、古いフィルターはいつの間にかなくなることでしょう。

 

“ない”探しをやめ、“ある”に目が向くようになると、『私たちは新しい豊かな世界にいる。』ということに気づき始めます。

子育てや日常の中で起きる様々な出来事は、たとえそれらが起きてほしくないことだとしても、私たち一人ひとりが、その体験を通して、成長し、新しいあり方を手に入れる機会なのです。

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高い視点

雨上がりの空は見ていて飽きないものです。空の高いところにもこもことした白い雲がふわ〜っと浮かび、その手前をグレーの小さな雨雲のかけらがプカプカと漂いながら通り過ぎていく…その背景は澄んだ青空。

子どもの頃を思い出し、あの雲は太ったかいじゅうだな。乗ったら気持ちいいだろうな・・と、雲と一緒にいる時間に平和と豊かさを感じる私です。

 

 

最近は、子育て中のお母さんがママ友との関係に振り回されるということが多いようです。テレビドラマでも題材になっているとか…。

例えば、子どもの幼稚園選びをする時も「ママ友がいる園に入れることにした」という話は良く聞きます。

少し前は、“公園デビュー”という言葉がよく聞かれ、公園でいじめに遭うお母さんもいて、それが怖いという話も聞いた事があります。

子育てそのものではなく、周囲の人との関係に悩んでいるということが起きているようです。

こうした人間関係での悩みは、子育てだけに限りません。家族間、職場、ご近所付き合い、趣味の習い事などでも、周りの人に振り回され疲れきってしまう…ということがあるでしょう。

 

先日、ブラジルのスラム街に住む子ども達が社会の腐敗を暴露するという映画を観ました。ハラハラドキドキするようなストーリーは、楽しめました。

でも私が心を奪われたのは、そこに出て来る劣悪な環境のスラム街での子ども達の生活でした。淡々とその強烈な貧困層の生活が描かれていて、その人たちの日常生活は捨てられたたくさんのゴミを漁り、そのゴミに埋もれて暮らしているのです。貧困層の中には家さえなく、下水道に住んでいてその他のゴミを漁る人たちからさえも嫌われ、排除されている、最下層とも言える様な暮らしをしている子ども達の姿も描かれていました。

今、この瞬間にも、日本の裏側ではこのような現状があるということに、衝撃とやり切れなさを感じました。

 

この映画から、1992年の国連リオ地球サミットで伝説のスピーチと言われている、セヴァン・スズキという当時12歳の女の子のスピーチを思い出しました。

 

2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。

 「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べものと、着るものと、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」

 家もなにもないひとりの子どもが、わかちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。

 ・・・(中略)・・・

 もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどそのことを知っています。』

 

これはそのスピーチの抜粋文です。

※全文はこちらへ→ 環境文化NGOナマケモノ倶楽部 -翻訳者グループより

このスピーチは20年以上も前のものです。今でもこのスピーチを生かせていない現状は、私たちひとりひとりのあり方がもたらした世界なのです。

 

感銘を受けるのは、このセヴァンさんのあり方です。12歳とは思えないほどの視点・意識の高さなのです。

 

私たちは日々とっても小さなことで悩み、自分の小さな小さなコミュニティにしがみつき、その中でいかに“うまくやるか”という事にエネルギーを注いでいます。

ブラジルの子ども達を思うと、大きな世界に目を向けていない、私たちの無関心なあり方に直面します。

 

今という時代は、色々なことがスピードを持ってどんどん変化していく時代です。

そして、どのように変化するか、変化の影響をどのように受けるか…は、私たち一人ひとりの選択があり、その結果を創り出していることに気づく時なのです。

私たちがこの世界でどう生きるか、何を選ぶか…が、この地球に影響を与えます。

今、その事を認識し始める必要があります。

小さな世界から出て、視野を広げ、大きな世界から生活してみましょう。

“ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻が起きる”バタフライエフェクトという量子力学の話があるように、私たち一人ひとりの存在が世界に影響しているのです。

地球規模に視点を上げれば、小さな人間関係の悩みも今とは違うように見えて来るかもしれません。何か今までとは違う選択するという自分を創ることもできるのです。こうした一人ひとりの明確で、小さな選択が地球全体に影響を与えます。

 

最近は『人の役に立つために生まれた』と言っている子どもが多いという話を聞いた事があります。

そして、私たちも昔は子どもでした。

地球を救うための役割を、一人ひとりが担っている事を思い出す時かもしれません。

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“信”という器

先日、公園の暗がりで、たくさんの植木に囲まれひっそりと咲いているあじさいを見つけました。淡い水色のあじさいが、幻想的に浮き上がって見え、戸棚の奥の宝物を見つけたような、嬉しさがじわっと心に広がった瞬間でした。

 

 

先日、『子どもを信じ過ぎてはいけないのでは』という話を聞きました。その言葉の中には、“子どもは未熟で守るべき存在”という事があるようでした。

子どもの遊びを見守る中で、どこまで子どもがやりたいようにさせて大丈夫なのか?どこまで信じればよいのか?という迷いでもありました。

 

以前、肝っ玉母さんという表現がぴったりなお母さんがいました。

町のお祭り会場でのことでした。小さな子ども達がたくさんいて、それぞれ親にしっかりとくっついていたり、親が子どもから目を離さないようにくっついてまわっていたりという様子でした。

肝っ玉母さんの子どもは、2歳くらいの女の子で、ちょこまかと自分の興味の範囲をどんどん広げていっている様子で、徐々に離れて遊び始めました。そのお母さんは、子どもを追いかけ回す事もなく、ただにこにこと自分の子どもを少し離れたところから眺めていました。その様子は、どっかりと肝を据えているようなあり方でした。

しばらくして、子どもが何かを握り、意気揚々と大人達に見せに来ました。何だろうと覗いてみると…乾いて固くなった犬の糞!

周りの大人達は大慌てでしたが、そのお母さんは「あらら。くさいねぇ」と笑いながら対応し、全く動じていませんでした。

 

このお母さんを見て、『子どもをちゃんと見ていない』という人もいるでしょう。

でも私はこのお母さんの動じないあり方を見て、「すごいなぁ、私もこういうあり方を手に入れたい」と思いました。

子どもを放っているのではありません、子どもを“そのまま受け入れている”という様子でした。

ただ、その子どもを信じているというよりは、“子どもの力を信じている”のです。

 

子どもは大人が思いもしないことをします。大人にとって、やってほしくないことが多いかもしれません。

雨上がりに歩いていると水たまりに入っていく

ちょっとした段差に上がり、その上を歩きたがる

棒を振り回しながら歩いたり、人の家の柵を棒でカンカン鳴らしながら歩く

・・など。

このような、ちょっとしたいたずらを子どもはしたがるものです。

子どもはいたずらなどとは思ってなく、ただやりたいことをやっているだけなのです。

小さい頃に、いたずらをして隣のおじさんに怒られた…というような経験が誰にでもあるのではないでしょうか?

怒られたり、怪我をして痛い思いをしたり、楽しい、嬉しい、怖いなどの様々な経験を通じて、いろいろな分別や知恵をつけていくのが子どもです。

そして、その時々に子ども自身の力を使って、乗り越えていくのです。

 

でもその子どもの力は、その年齢によって違います。赤ちゃんがそのままハイハイしていたら道路に出てしまう場面で止めない人はいないでしょう。

本当に危険な場面ややってはいけないことなど、その時の子どもに必要な手助けや助言は必要です。

 

“子どもの力を信じる”というのは、大人が今目の前の子どもの力をきちんと認識できていることが大切です。それには、大人の観察する力が必要となります。

今、目の前にいる子どものそのままを観て、聴いて、今どんな成長をしている時なのか、どんなことを学んでいる時なのか、を認識している大人がいることによって、子ども自身が自然に自分を認め、自己承認・自己肯定感を持つことに繋がります。

 

 

“子どもの力を信じる”とは、子どもを丸ごと受け入れられる“信という器”があるということです。

“信という器”を手に入れた人が地球上に増えていけば、子どもだけではなく、人間同士の存在に“信という器”が土台となって、平和な世界を創れるのではないでしょうか。


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恐れ

良く通る道に、淡いピンク色のあじさいが咲き始めていました。そのあじさいはまだ7分咲きくらいで、満開になるのを楽しみにしている私です。次の日にそのあじさいの前を通りかかると、咲き始めた花が全てくた〜と下を向いていました。暑さにバテた様子を見て、思わず日傘でも差してあげたくなりました。

 

 

イギリスの保育事情の記事を目にすることがありました。それは、一流だと称されている幼稚園に子どもを入れる為に、親が必死だ…というような記事でした。イギリスの方が先進的な保育・教育をしているのではないかと思っていたので、日本と似ていて驚きました。

 

今は様々な手法の保育・教育で溢れています。どういう保育・教育であっても子どもは、与えられた環境の中で育ちます。究極的には、どうであっても子どもは育つのです。

子どもは、大人の要求に答えようとするものです。中国雑技団などは、そういった子どもの本質を利用しているのではないでしょうか。もちろん得手不得手はありますが、頭も身体も柔らかい小さい頃から繰り返し訓練されれば、大抵のことはできてしまいます。

保育園で初めて働き始めたとき、1歳半の女の子が自分のくつ下をくるっと丸めて畳んでいる姿に驚いたことを今でも思い出します。その子は靴も脱いだら揃え、1歳半とは思えない程しっかりしていました。家で教えられていたのでしょう。

こんな風に、ある程度のことは教えるとできてしまうのが、子どもです。

だからこそ、大切なのはその時の大人の関わり方やあり方なのです。

 

大人が“しつけ”と称して、叱って何かを身につけさせるというのは、まるでサーカスのゾウのようです。ムチで叩かれながら訓練すれば、玉乗りもでき、ご褒美にりんごがもらえる…といったことと同じ原理です。

それは、“脅し”であって、その大人本人の“恐れ”からの行動です。

もし大人が言葉で叱っていなくても、“言うことを聞かせよう”という支配のエネルギーを発していれば、同じことです。

子どもは大人に喜んでもらいたい一心で、期待に添うように、頑張ります。でも、その元は大人の“恐れ”の影響を受けているのです。

 

こうした“恐れ”は日常の中でも多くあります。

例えば、仕事への恐れ(失業・地位や収入が減る、なくなる)、人への恐れ(嫌われる・何かを言われる)、社会への恐れ(世間体・人との違い)など…今、自分は恐れていないと思っている様なことにも実は“恐れ”から行動していた、ということもあるのです。

 

今の世の中は“恐れ”が根底にあります。

戦争は“恐れ”から始まります。

私たちは、地位や権力、名誉、お金などを持っていることが、幸せや安全・安心と思っているので、失いたくないという“恐れ”に取り憑かれているのです。

今、一番大切なことは、“恐れのない世界”を創ることです。

そして、“恐れのない世界”を生み出すことは、“今、ここで”私たちひとりひとりにできることです。

 

子どもを育てるとき、自分は何に恐れ(不安)を持っているのかに気づくことが大切です。大人自身の“恐れ(不安)”は、子どもへの影響が多大です。

その自分の恐れをしっかりと受け止め、ただ“恐れ”という形のないものに反応している自分が“今”いるだけ。

ということを認識する…それが第一歩です。

そして、子どもの世界に“恐れ”を持ち込まないと決めるのです。

 

“恐れ”のない世界で子ども自身が自由に探求し、観察し、学べるということが、本当の自由な保育・教育です。

このような自由の中で育つ子どもは、恐れの上に造られた今の社会ではなく、全く新しい、愛のある社会を創造すると私は信じています。



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