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2015年5月

“生”を発見する

しばらくブログをお休みして、熊野古道を歩いて来ました。

平安時代からの千年の歴史を持つ古道を見守る立派な樹々。その道を歩く人々の営みを見守り続けて来たその樹を見上げると、威厳に満ち、強い穏やかなエネルギーが降り注がれているようでした。

朽ちた切株の上は、柔らかな苔で覆われ、その苔の上には新たな樹の芽生えがありました。森は静かに循環している…そんな自然の営みを感じました。

 

 

自然保護団体がよく、『草木を大切に』ということを言います。草木が大切だと思うあまりに、ナチュラリスト(自然主義者)の中には、人間の存在すら不要と考える人もいます。でも、地球環境に影響を及ぼす一番大切な鍵をにぎっているのは人間なのです。

 

子どもは、虫や動物などの動くものに興味を持つ事が多く、アリを指でつぶしてみたり、水たまりに落として泳がせてみたり、アリ地獄(ウスバカゲロウの幼虫の巣)の中に落として食べられる様子を見たり…と、大人からすると一見残酷にも見える遊びをします。

でも誰でも一度はやった事があるのではないでしょうか?

「生き物の命を大切に」という言葉を良く耳にしますが、子ども達はこうした実際に命に触れる遊びを通して、『命』を体験するのです。

 

大人の言う「生き物の命を大切に」というのは、人間に都合の悪い物以外の事を指すように思います。害虫駆除や害獣駆除などは、本来の生態系の中には必要のないことでしたが、農作物を守るため、または人間が崩した生態系を守るために行われることも多々あります。それを脇に置いて、「命を大切に」と言っているということを認識しておく必要があると思います。

 

子どもが虫や小動物をいじり過ぎて殺してしまう…ということがありますが、故意に殺そうとしているのではなく、興味や愛情から触り過ぎで死んでしまうということもあります。

大人が「生き物を大切に」と先回りしてしまうと、子どもは『命』に触れる体験がなくなってしまいます。

また、おもちゃを買い替えるかのように「死んだから、また違うものを手に入れればいい」というのは、言語道断です。

虫や小動物の“死”を大人も一緒に体験する事で、そこには『命』を考える機会が生まれるのではないでしょうか。

 

 

以前、こんな場面を見かけました。

子ども達が死んだザリガニを見つけました。死んでいるので、動いているザリガニを触れない子もちょんと突いてみたり、ひっくり返してみたりと、安心して観察していました。

それを見た保育者が、

「みんなでお墓を作ってあげたらいいんじゃないの?」

と言いながら、その保育者が土のある方へ持って行って、子どもに穴を掘らせていました。

これでは、一緒に“死”を体験したことにはなりません。

子ども達の中から、「お墓作ってあげよう!」と出たなら、また違う体験となったでしょう。

 

『真の教育とは“生”を見いだすことだ』とクリシュナムルティという、インドの賢者が言っています。

“生”を見いだすということは、全ての動植物と人間、そして生命体としての地球との関係を探求することになるのではないでしょうか。

その探求は、足もとのアリの存在から始まるかもしれません。

飼っている犬から始まるかもしれません。

自分で種を植えた、アサガオから始まるかもしれません。

このように小さな体験から、多くの発明・発見が生まれて来るのです。

そこで大切なのは、模倣する事ではなく、自ら発見すること。

親や先生の言う通りにすることは簡単です。そして、大人にとってもその方が簡単で、安全でしょう。

しかし、教育の役割とは、子どもが“生”を見いだす手助けをすることです。

 

子ども一人ひとりが自ら探求・発見するプロセスを大切にすることこそが、本当の教育です。そのなかで、“考え”“感情”“言動”を認識できる、リーダーを育むことが、現在の疲弊した地球を救って行くことに繋がるのだと信じています。


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繋がっている世界

「上手くできてるよなぁ・・。冬は葉を落として陽射しを届けてくれて、夏は葉を茂らせて日陰を作ってくれて。」

…と、先日知人が、こんもりと葉を茂らせた街路樹を見上げながらつぶやいていました。その言葉にハッとさせられ、見上げると、強い陽射しが降り注ぐ歩道の上に、たくさんのイチョウの葉が涼しい日陰を作ってくれていました。

自然からの愛と自然への愛に触れた・・そんな体験でした。

 

 

最近、雑誌やインターネット上で、世代間から生じる子育て観の違いと問題に関する記事をよく目にします。

一世代前は“抱き癖がつくから抱っこはしないように”という育児法だったので、今の子育てにもそうするように強要される・・というような、子育て方法の不一致が多く上がっています。

おばあちゃんは孫のために・・とアドバイスをしてくれるけれど、時代が変わっている今、その手法も変わっています。何を信じたら良いのか、そのアドバイスをどう受け止めたら良いのか、迷っているような内容が多くあります。

子育てママの孤立の心配をよそに、このような問題もあるようです。

 

母子の繋がりというのは後々まで引きずるケースが多くあります。

母親は自分のお腹を痛めて産んだ子どもですから、子どもを自分の一部のように同一視し、大人になってもコントロールしようとする事があります。

また子どもがそのコントロールから逃れられないのは、断ったら母親を傷つける、断ったら愛されなくなる…と自分自身を縛り付けてしまうからです。

 

人間の身体の構造は、大きく分けて肉体と感情体と思考体の3つで成り立っています。(パウエルの神智学より)そして、誕生の時に母親と子どもの肉体は分かれて、独立しますが、子どもが12歳になる頃までは、感情のレベル(感情体)は繋がっているそうです。母親が不安になったり、悲しんだりしていると、離れた場所にいるその子どもも不安定になる・・ということは多くあります。

保育園で、子どもがなぜだか一日中落ち着かず、泣く事が多い、不安定な日に、迎えに来たお母さんの疲れきってイライラしている状態を見て納得…ということがあります。

このように、子どもは、お母さんの影響を受け易い存在なのです。

 

私たち人間は、エネルギー体です。

お父さんとお母さんが喧嘩している…という事があったとすると、二人のギガギガとしたエネルギーがダイレクトに子どもへ飛びます。そのエネルギーを子どもが被ってしまうのです。無言の喧嘩であっても、子どもへトゲトゲとしたエネルギーは伝わります。

子どもには何があったのかはわからないし、喧嘩していることにも気づいていないかもしれません。でも、そのエネルギーは子どもへと伝わってしまうのです。

親も人間ですから、イライラすることもあります。喧嘩をすることもあるでしょう。でも、そのイライラや怒りは“子どもへ確実に飛んでいく”と知っている事が大切なのです。

自分がイライラしている時に、子どもがいたずらをして、

「どうしてこの子はこんな時にこんなことするの!」

というような出来事があるのではないでしょうか?

それは、もしかしたら子どもがギガギガしたエネルギーの影響を受けているのかもしれません。

 

親子の繋がりでは、伝わってほしくない事も伝わってしまうものです。

だからこそ、

今、自分の感情がどういう状態だろうか。

今、自分の思考は何といっているだろうか。

今、自分はどんなエネルギーを出しているだろうか。

と、自分を見ることが大切です。

 

そして、その自分を認識する事によって、ほしくない出来事が起きた時に、子どものせいにするのではなく、今起きているその出来事だけを効果的に扱えるようになります。

ただ、“自分は怒っている”とか“疲れている”ということを認識するだけ。

すると、自然と子どもへの対応も違って来るでしょう。

怒りの延長で「早く寝なさい!」と言ってしまう…ということもなくなります。

逆に、子どもへは「今日はちょっと疲れてるんだ」とか「ママ喧嘩しちゃった」などと、ちょっとした弱音を吐けるようになるかもしれません。

 

“共感”という言葉がありますが、それは感じている事の分ち合いであって、感情がべったりとくっついていることではないのです。

自分の感情と相手の感情をごちゃ混ぜにしてしまうことも多くあります。

そして、感情と考え(思考)がごちゃ混ぜになって、混乱しているということも多くあります。

自分の感情、相手の感情、自分の考えをひとつひとつ区別していき、それを伝え、伝えられるという関係こそが“共感”の第一歩です。

大人も子どもも、ひとりひとりが感じている事を認め合い、それを伝えられる…それこそが“愛と信頼”から成り立つ“共感”なのです。

 

ひとりひとりを尊重し合う“繋がり”…それは、“愛と信頼”から成る、“絆の世界”となるのではないでしょうか。


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日常のなかの喜び

街路樹の緑が色濃くなり、それら緑が目に飛び込んでくるような季節になりました。様々な木々が発するその緑色も様々。

その中に、ひと際輝きのある植木がありました。一枚一枚の葉の表面がツルツルとして、柔らかく、生まれたばかりの新しいエネルギーに包まれていて、曇り空のなかでも輝いて見えました。

自然な輝きとは、このような内側から発する光の様なものなのだと感じました。輝いて生きている人も、そんな風なのかもしれません。

 

 

友人が、日常の中に喜びを見つけた話をしてくれました。

「スーパーの品出しの仕事をしている時、自分で品物をどのように並べたらスムーズか、あれこれ考えていたその最中に、本当にこの仕事は楽しいなぁ、わたし幸せだなぁと感じたの。」

・・と、それは、日々の何気ない出来事でした。

日常の中で喜びを見つける事は、もしかしたら簡単なのかもしれません。

例えば…

家族の洗濯物をひとつひとつ干している瞬間の自分の中に。

仕事に夢中で取り組んでいる瞬間の自分の中に。

 

私も、子ども達が暖かい陽射しの中で、遊んでいる…そんな何気ない光景に、じわ〜っと喜びを感じている自分に気がつきました。

喧噪の中にできるちょっとした間。

その瞬間にある、自分の中にじわじわと湧いて来るそんな喜びです。

その瞬間というのは、自分の胸にじわ〜っと暖かい・心地よいものがあります。周りがどんな様子であっても、自分の中には平和と安心がある…そんな内的な体験です。

この時の自分を振りかえってみると、“開いている状態”なのです。

 

開いている状態…というのは、ハートが開いているということです。

“ハートが開いている人”というのは、話しかけ易かったり、その人が来ると周りが明るくなったり、壁がないような人です。これをよく“オープンな人”という表現をします。

そのような人といると、自然と笑顔になり、こちらもリラックスしてくる…ということがあるのではないでしょうか。

 

逆にハートが閉じている状態は、緊張していたり、警戒していたり、怖さや不安を感じている状態のことです。

閉じている時は、何かにつけて、不満に感じていたり、人を信じられなかったりする状態が生まれ易く、「世界に自分ひとりだけ」というような孤独感を感じる事が多いようです。

そして、私たちは普段ほとんどハートを閉じて生きています。

 

“身を守る”という本能のようなものから、ハートを閉じてしまうのかもしれません。でも、家族といる時、子どもといる時、職場にいる時、何も自分の命を脅かすものはありません。“身を守る”必要はないのです。

 

ハートを開くということは、胸の辺りに窓がついていて、その窓をパカッと開けるといったイメージです。まるで、鳩時計のように、パカッと開けてみて下さい。窓を開けて、鳩が飛び出してきたら、その鳩があなたの愛のエネルギーなのです!!

 

息をふぅ〜っと吐きながら、リラックスした状態で、ハートを開く…。

まず最初は、閉じているという事に気づいてください。

そした、ああかな、こうかな・・とやってみる事が大切です。

人といる時に難しければ、まずは、花や木に向かってやってみてもいいでしょう。空を見ながらやってみてもいいでしょう。

炎(ロウソクや焚き火)や水面(海や湖や滝など)を見るとやり易いという人もいます。

 

ハートを開くと急に、周りの景色が鮮やかに見えてくるかもしれません。

目の前の花の繊細さと緻密さ

外の景色の美しさ

子どもの純朴さ

人への愛おしさ

・・・

今まで見えていなかったような、色々なものが見え始め、今まで気づいていなかったものにも気づき始めます。

すると、日々の生活の中のひとつひとつが喜びに見えて来るのではないでしょうか。

 

ハートが開けないような状態もあるかと思います。

何か大変な状況が起きた時や余裕のない子育ての真っ只中など・・

そういう時にこそ、ハートを開いてみたらどうなるか、あれこれやってみてください。

「世界に自分ひとりだけ」という状態から抜け出し、世界の広がりを体験しましょう。

 

私たちひとりひとりがハートを開いていることで、世界は喜びに溢れ、愛のある未来に繋がっていくと、信じています。


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あり方から来るしつけ

子どもの頃から、台風が通り過ぎた後の空気が好きです。

空気中の汚れまで洗い流され、澄んだ爽やかな風。

それまで気にならなかったような、遠くで車が走る音や工事の音が鮮明に耳に入り、その合間にのどかに鳥のさえずりが聞こえて来る…。

自分の感覚まで、研ぎすまされたような気がします。

 

 

先日、友人と食事のマナーの話になりました。文化の違いで随分とそのマナー自体が違うということです。

韓国では、立て膝が正式な座り方で、食べる時はくちゃくちゃとわざと音を立てて“おいしい”ということを表現したり…と日本ではお行儀が悪いとされていることが、良いマナーなのです。

日本でも麺類を食べる時は、やはり音を立てた方が“おいしい”ですよね。音を立てないで食べてみた事がありますが、何だかあまりおいしく感じません。ズルズルズル〜っと麺と汁を一緒に口に含み、味が混ざり合うからこそ、おいしいなぁと感じるのです。

“舌鼓をうつ”という表現があるように、本当においしい時は、音が出てしまうのではないかと思います。

マナーはその時、その場所、その国によって変わるもので、絶対的なものではないのです。

世界はこれから、国によっての違いを認め合うようになっていくのだと思います。

 

 

「どのように子どもをしつけたらいいですか?」

「保育園ではしつけをどう考えていますか?」

・・という“しつけ”に関する質問を、多くの保護者から受けます。

 

では、その“しつけ”とは何でしょうか?

例えば、先に書いたように、食事のマナーをとってみると、様々な考え方があり、新しい“しつけ”に対する考え方が必要な時だと思います。

私たちはグローバルな社会で生きています。

海外生活がより身近になっている、今。

だからこそ、世界に通じる“しつけ”が大切となってきます。

 

 

今現在、世界の食糧問題では、およそ8億500万人が慢性的な飢餓で、約20億人が栄養不足に苦しんでいます。そして、28億人以上が肥満であり、ラジ・パテル氏の著書『肥満と飢餓』によると、その肥満も実は貧困による栄養の偏りから来るものだということです。

 

 

「食べ物を粗末にしない」という概念がある一方で、食が進まない子どもに、なんとか食べてもらおうと試行錯誤し、何でもいいから食べてほしいという思いもあるでしょう。

「食べたくても食べられない子がいるんだよ。」

と、食べ物を残す子どもに諭してはいるけれど、実際にそのことを普段から気に留めている人は少ないのではないでしょうか?

 

親のあり方が明確でなければ、その時々によってぶれてしまいます。

“しつけ”はやり方ではなく、その親のあり方が子どもにどう伝わるかということです。

 

子どもをしつける時に、必要なのは“やり方”ではなく、“あり方”なのです。

親自身が“自分は何を考え、何を大切にしているか”を認識していることが基本です。

“何を大切にしているだろう”

という問いかけを自分自身にしてみてください。

“人や動物に優しく”

“家族の健康”

“人からの評価”

 “お金”

 

“仕事”

“自然環境”

“命”

などなど…自分が大切に思っていることを一つでも見つけると、そこからの言動が自然と起きて来るのです。

それが、“あり方”です。

 

“自分一人が良ければ良い”…というあり方だと、子育てにもそのように現れます。

“地球環境を大切にする”…というあり方だと、そのことが子どもにも伝わります。

 

そのひとりひとりの“あり方”こそが、世界を変えます。

普段、無意識な言動をしている自分に気づき、意識的にどう生きるか。

そのことが、子どもに本当に伝えたい “あり方から来るしつけ”なのです。

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“泣くということ”と“泣いている子”

暑い陽射しの中を、風が爽やかに通りすぎ、心地良く感じる季節です。先日、青々と葉が茂っている桜の枝先から、ツツーと小さなあおむしが私の目の前に降りて来ました。その時の私はいろいろ考えながら歩いていたですが、そのあおむしが、私の意識を外側に引っ張り出してくれました。

あおむしは、細い糸にぶら下がり、ふわふわと宙に浮いているようでした。一見、気持ち良さそうに見えましたが、よく見るとまるで枝から落ちたくないかのように、必死に上に向かって透明の糸をたぐり寄せていました。

あおむしは上に上がることばかり考えているように見え、私だったら、空中さんぽを楽しむのになぁ・・と思いつつ、それまで自分自身が散歩を楽しんでいなかったことにも気づかされた出来事でした。

 

 

私たちは、日頃何かにつけて抵抗しながら生きています。

例えば

何か新しいことに初めて挑戦するとき、ぐっと力が入り、体が緊張し、身構える。

誰かと意見を交わすような場面では、相手の意見への対抗策を頭の中で考えている。

このような抵抗の中から、良い刺激が体験できたり、より良い意見やアイディアが生まれたり…と抵抗自体は悪いことではありません。

私たちは様々な場面で無意識に抵抗をしていることが多いのです。

 

先日、「子どもを泣かせたくない」というお母さんに会いました。

「どうして泣かせたくないの?」と聞くと、「大変だから」と言うのです。

そして、泣かせない為に大きな声で怒ったり、子どもがやっている遊びをやめさせようとしたり…と、“大人しく”させようと必死なのです。

このあり方こそが抵抗です。

なぜこのような行動になるか?というと、“泣く子が嫌だ”“泣く子は大変”という考えや解釈がありました。

そして、“泣くこと”への抵抗が始まるのです。

 

子どもは“泣くこと”で感情を表現したり、何かを訴えたりするので、泣きたいときは泣かせてあげることが大切です。

 

そして“子どもが泣いている”最中の“*自分”の状態がポイントになります。

泣き声でイライラしている

泣き声が大きくて嫌だ

泣き声が怖い

隣近所に迷惑になるからと焦っている

などなど、様々な感覚や感情が出て来るのではないでしょうか。

これは、“泣いている子”に対しての“自分”の反応で、その子のことではないのです。

 

その時の自分の反応をキャッチしてみると、“泣いている子”がダメ…としているのかもしれません。

ただ子どもが何かに対して“泣いている”というだけです。

“泣いている子”はそのままに。

“泣くこと”は良しなのです。

 

「“泣くこと”はいいんだ」となると、泣かせっぱなし…になってしまう、放任の様な対応をイメージするかもしれませんが、そうではありません。

“泣いている”そのことそのものに対応しようとすると、「痛かったのね」とか「嫌だったのね」とか、「今は泣きたいのね」…と子どもの姿・心に寄り添うような言葉や態度になるのではないでしょうか。

 

「“泣くこと”を良し」とするには、泣いている子どもを前にして、自分を観察し、その反応をまずは観る…そしてその自分の反応を頭の上に一旦乗せて置いて、子どもの“泣くこと”を受け入れてみると、“泣く”という表現が愛おしく感じてくるかもしれません。

 

 

 * 文中の“自分”とは読者自身のことを指しています。

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“子育て”というダンス

街路樹のイチョウの葉が茂り、強い陽射しを受けて、陽の当たっている部分と暗く陰になっている部分とのコントラストが、まるでモザイク画のようです。一枚一枚の葉が、イチョウの樹全体の姿を創り出している…そんな自然のアートに心を奪われます。

 

先日、家庭菜園とビオトープ(生物が住みやすい環境)を自宅の庭に作った友人の話から気づきがありました。

その友人は、最初マニュアル本を見ながら家庭菜園やビオトープを作っていたそうですが、途中から見なくなったとのことでした。それは、失敗したり、試行錯誤したりしながらの方が“楽しい”と気づいたのだそうです。失敗するからこその気づきがあり、その発見を楽しんでいるという様子でした。

そしてこれは、“子育てを楽しむ”という事にも通じると思いました。

 

「トイレトレーニングはどうしたらいいですか?」

「子どもの指しゃぶりはどうしたらとれますか?」

「どうしたら、すぐに寝てくれますか?」

などなど・・子育て中の親から色々な質問を受けますが、どれもその子どもによって違う対応が大切なので、“やり方”がなにかひとつある訳ではないのです。

 

トイレトレーニング

指しゃぶり

寝かしつけ

発語

食事の仕方

などなど、全て何かひとつの正しい方法がある訳ではありません。

 

そして、その様々なシチュエーションの時に、親が自分を見てみると「…でなければならない」とか「正しいやり方は…」ということで頭がいっぱいで、子どもの様子や気持ちは見えていないケースが多いようです。

 

子どもを育てることに“マニュアル”はないのです。子どもはひとりひとり違い、その時々で違う反応をするので、決まった“やり方”では通用しないことがあるです。昨日は上手くいったのに、今日は上手くいかなかった…ということも多いのではないでしょうか。

 

だからこそ、“今”目の前の子どもと向き合い、“ああかな”“こうかな”と、ただやってみるのです。

「このやり方はどうかな?」「あの方法を試してみたらどうかな」と子どもとのやり取りを“楽しむ”というあり方であれば、新しいアイディアが毎日湧いて来るでしょう。

失敗したとしても、「ダメだった…」と落ち込むのではなく、「これはダメね、じゃあこれは?」というように、失敗も経験のうちになってきます。

何がその時の子どもの心を動かすかはわかりません。

子どもの“今”を見て、“今”自分がどう出るか?を“楽しむ”ことがポイントなのです。

 

向き合っている相手が右足を出したら、自分は左足を下げ・・相手が右足を下げたら、自分は左足を出す・・・と、ダンスをするように、子どもとのやり取りをしてみると、自然と“楽しむ”自分になっているでしょう。

ダンスをするには、自分本位では成り立ちません。

相手の様子を見て、呼吸を合わせるように、向かい合うことが大切です。

相手は自分が思いもよらないステップをしてくるかもしれません。でも、それを楽しめるようになると、自然と息が合い、リードしている自分に気がつくかもしれません。

そして親だからと言っていつも、親がリードする必要がある訳ではなく、子どもがリードして上手くいくこともあるのです。

 

子どもは毎日、その時、一瞬一瞬、違います。だからこそ、その一瞬を見逃さず、向き合って、子どもとのダンスを楽しんでみてください。

その為には、自分の“今”と子どもの“今”をしっかりとキャッチすることが大切なのです。

今「“子育て”というダンス」を楽しむ自分を手に入れませんか?


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忙しい中でのゆとり

道を歩いていたら、ふわ〜っと風に乗って甘い花の香りがしてきました。

その香りに惹かれて行ってみると、垣根に添って小さな真っ白い花が満開。ところどころにあるつぼみがうっすらとしたピンク色でオリエンタルな雰囲気を醸し出しています。その花は、ジャスミンでした。

家に帰ってインターネットで調べてみたら、ジャスミンはペルシャ語の「ヤースミーン」という言葉が由来で、“神からの贈り物”という意味でした。あの香りを思い出し、「なるほど“神様からの贈り物”なのだ」と納得しました。

 

 

ある映画で、日常によくある母と子のやり取りが生む、葛藤を描いていました。

その家庭は、母親が生活に追われているようで、心にも余裕がない様子でした。子どもが何か話をしていても、用事をしながら顔も見ずに返事をし、子どもが母親に聞いてほしい事がある時も「忙しいから後にして」という状態でした。ある日、子どものフラストレーションが爆発。テーブルに乗ったり、物を投げたり、大暴れしている子どもに、母親は「どうしてそんなことするの!手に負えないわ。この子がわからない。」と嘆いていました。

 

 

親子は近い関係なので、日常の生活に追われて余裕がない時はどうしても、子どもの存在をなおざりにしがちです。親のやりたい事があったり、やらなければならない事があったりと、頭の中は“忙しい”でいっぱいになり、自分を追い込んでいる状態になっています。

そういう時の自分を見ると、イライラして、何か面倒な事が起きると怒り、ただ子どもを急かす…といった“忙しい”というあり方の自分になっているのではないでしょうか。

 

このような、“余裕がない”“忙しい”と言っている時ほど、自分を観察してみることが大切です。

肩に力が入っている自分に気づくかもしれません。

頭の中が騒がしく、思考がうるさくなっている自分に気づくかもしれません。

その思考が「なんで自分だけ大変なの…」と文句を言っていることに気づくかもしれません。

子どものことを「面倒を起こさないでよ」と、邪魔者扱いにしている自分に気づくかもしれません。

 

 

 そういう時は、“今”目の前の必要なことを淡々と“今”やるだけ。

時間に間に合わないことが出て来るかもしれません。

そして、間に合わなくてもいいかもしれない・・と、ゆったりすることを試してみて下さい。

 “今”というこの瞬間に自分が存在する時、ゆったりとした時間が流れていることに気がつくでしょう。

“忙しい”という中に、“ゆとり”を見つけることがあるのです。

 

“忙しい”“余裕がない”と言っているのは、自分の頭の中の思考です。

私たちは、その思考に振り回されていることがほとんどです。

実際には、ひとつひとつの行動を淡々とこなすだけなのです。

大切なのは、その最中の自分自身を見るという事。

行動している最中の自分のあり方が“焦っている”“慌てている”でも、“余裕がある”“穏やかである”でも、結果は同じ。物事はひとつひとつ“終わり”=“完了”します。

でも、“完了”するまでのあり方で、行動の“質”は全く違います。

自分のあり方が“余裕がある”“穏やかである”というような時、子どもへの関わり方の“質”が全く違うものになります。

 

先ほどの映画に出て来た母親も、我が子のことを大切に思い、愛していました。それでも、“余裕がない”あり方が、子どもに影響を与えていたのです。

“余裕がない”という思考で頭の中がいっぱいになった時こそ、ふぅ〜と息を吐いて、“今”という瞬間を味わいます。すると、“穏やかである”という自分が手に入り、忙しい時間帯も子どもとの関わりの中に“ゆとり”が生まれ、豊かな時間が手に入るのではないでしょうか。


“余裕がない”“忙しい”が出て来た時、それは、“今”という豊かな時間を楽しむ自分を手に入れる練習の時なのかもしれません。


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安心の場

ツツジの花が満開の今日この頃…普段何気なく歩いていて殺風景な街中も、ツツジの花で華やいで見えます。

一斉に陽に向かってパッと開いている花達と、親鳥が運ぶ餌を巣の中で口を開いて待っているツバメの雛とが、似ているように見えます。

どちらの姿も、エネルギーを全力で求めているような生命力を感じます。

動物も植物も子どもも、ぐんぐん育つ、生命力溢れる季節。私にもエネルギーが巡っているような…そんな感覚があります。

 

5月に入り、保育園・幼稚園での新しい生活に慣れて来た子どももいれば、なかなか慣れずに毎朝泣きながら親と離れる…という子もいる、そんな子どもひとりひとりのペースが見えて来る時期です。

毎朝泣いても親と離れた後はすぐに泣き止んで遊び始める、というケースが多く、“毎朝泣く”ことが、心を切り替える為の“儀式”になっているようです。そうしている内に、ある日突然あっさりと「バイバイ!」と離れて行く時が来て、お母さんの方が「え、それだけ?」と拍子抜けてしまうこともあります。

 

“これくらいの時期にはこうなってほしい”という親や保育者の思い通りにはいかない事があります。

大人の思いと子どもの姿とのギャップがあるのです。

 

以前、新しいクラスに進級して1週間経っても、ほとんど一日中泣いて過ごしている子がいました。なかなか慣れないその子に、親も保育者もやきもきしていました。

その子は年度末に1週間熱を出し、その前のクラスの最終日に来られなかったので、その時のクラス担任だった私は、

「きっと、きちんとお別れをしていないから気持ちが切り替わってないのかもしれない」と思い、進級したクラスへ行き、その子を膝に乗せて、目を見ながらきちんと伝えました。

「〇〇くんはひとつお兄さんになったから、新しいお部屋になったのよ。新しいお部屋に行っても、〇〇くんのことは大好きだからね。」

というような事を話すと

「わかった」

と言い、最後に私にぎゅっと抱きついてから、サッと離れて行きました。

その後も時々泣くこともあったようですが、前ほど泣かなくなりました。

 

子どもは“安心”できると自由になります。

“大人から離れられない”ということは、まだ“安心できていない”ということです。

 

私はよくカモの親子の姿を思い出します。

カモの親子が歩いている姿を見ると、親ガモはペタペタとほぼ一定のペースで歩いています。時々止まっては足もとの何かをついばみ、また歩き出す…といった様子です。

小ガモは、その親ガモの周りを自由にちょこまかして、小ガモ同士じゃれ合いながら歩いています。時にはトトト…と親ガモを追い抜き、そこで何かを見つけるとそれをついばんだり、他の小ガモとじゃれたりしている内に親ガモはペタペタとまた追い抜いて行きます。

しばらくして置いて行かれていることに気づいて小ガモが追いかけて行く…という風で、抜きつ抜かれつしながら歩いています。

このように、小ガモは安心の範囲の中で自由に行動しているのです。

 

子どもには親との安心の距離感というものがあるのです。それはただ物理的な距離ということではなく、心の安心感というものです。

“安心の場”になるまで、子どものペースに添いながら、大人が手助けすることが大切です。

子どもに出来事をきちんと伝えている自分がいるだろうか、今。

きちんと子どもの目を見て向き合っている自分だろうか、今。

子どもの思いを否定せずに受け取っている自分だろうか、今。

とひとつひとつを、その最中に自分を観察してみてください。

「この子はいつも泣いているから、話しても無駄」と思わずに、どんなに小さい赤ちゃんでも、丁寧に語りかけ、接する事を重ねていくなかで、子どもが安心できるような場となっていくのです。

 

大人と子どもの信頼関係と絆が安心の場を作ります。

いつまでも慣れなくて、泣き続けている子どもに対して、「なかなか泣き止まない子」としてその子を扱うと、その状況は継続します。

 

子どもの力を信じて、安心の場を築き上げていく必要があります。

それは、大人と子どもとの共同作業のようなものかもしれません。

初めは抱っこしていないと泣き止まなかった子どもが、抱っこで安心すると、次は膝の上でも安心できるように…膝の上で遊び始めると、徐々に隣に座って遊び始め、時々少し離れたところにあるおもちゃを取りに行くようになり、気づいたら他の子どもと遊んでいる…という具合に子どものペースで安心の場が広がっていきます。

 

時間がかかったとしても、子どもの力を信じて、「大丈夫」という気持ちでどっしり構える…そういう大人のあり方が、子どもの“安心”に繋がるのではないでしょうか。


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