« “叱る”から伝わる“愛” | トップページ | 安心の場 »

誰として育てるか?

ユニバーサルエンターテイメントという視覚・聴覚障がいを持つ方でも楽しめる舞台のお手伝いに行って来ました。そこで、聴覚障がい者と一緒に準備をしたり、作業をしたりという、私にとって初めての体験でしたが、言葉の壁をほとんど感じませんでした。仲間として一緒に作業し、何かを達成するという中には、通じ合う言葉以外の繋がりがありました。わからないながらも、やりとりを楽しんでいるといった感覚でした。“手話は言語”なのですね。聞こえないから“障害”という訳ではなく、その言語をお互いに共有できれば壁がなくなります。その言語を知らないことこそが“障害”と感じました。

今までは言葉を伝える為の手話だと思っていましたが、手話で盛り上がっている人たちを見た時に、単なる必要なコミュニケーション以上の自己表現の豊かさを感じました。

聴覚障がいがあっても、自由に楽しそうにコミュニケーションを取っている世界を知ることができた、嬉しい体験でした。

 

 

その舞台の手伝いで、こんなことがありました。

キッズスペースに、親が障がいを持っている子ども達が来ていました。その遊びに来た子ども達には聴覚障がいはありませんでしたが、〜4歳でも手話でコミュニケーションを取り、言語と一緒に手話も習得している様子で、子どもの能力の高さを感じました。

ひとりの女の子の親が、「この子はまだ小さいから舞台は無理なので…」とキッズスペースに預けていきました。でもその子は、舞台を観に行きたがったので、一緒に観に行きました。すると、集中して観ていて、手話を使った歌の場面では、一緒になって手話をしながら歌っていました。結局ほとんど全部観てしまいました。親が来た時にその様子を伝えると、驚いていました。

 

親は子どもには“まだ早いだろう”とか“わからないだろう”という解釈のもとで接することが、日常の生活の中でも多いのではないでしょうか。

私には手話の方が難しくて、親にとっては舞台を観るということの方が難しいと双方思い込んでいました。

 

子どもは大人の接し方・あり方でいくらでも変わるのです。

お母さんの前では甘えん坊、でも幼稚園ではしっかり者…というような例も良く聞きます。

お母さんの前で見せる姿と先生の前で見せる姿が違うのです。

これは、子どもがわざと変えている訳ではなく、自然とそうなるのです。

その違いは、大人がその子を「どんな子として見ているか?」ということなのです。

 

ダライラマは子どもの頃から、ダライラマとして育てられました。そうは言っても、子どもの頃は子どもらしさもあったそうです。いけないことはいけないと教えられたでしょう。でも、周囲の人がすでに“ダライラマだ”として信じて接して来たからこそ、子どもの頃からダライラマという威厳が備わったとも言えるのではないでしょうか。

 

目の前の子どもを「“誰”(どういう存在)として育てるか?」という、大人の立つ土台を創ることが大切なのです。

「この子はできない子」として育てれば、「できない子」になるのは当然です。

「優しい子に育ってほしい」ということをよく聞きますが、「優しい子」として今存在させることで、すでに「優しい子」に育っているのです。

大人がその土台にしっかりと立っていると、目の前に現れる子どもの姿はその土台に基づいた姿で現れます。

土台を創ることは、大人のあり方と通じます。そのあり方(Be)で、子どもへの見方(行動:Do)が変わります。そして子どもの育ち(結果:Have)が変わるのです。

いつでも、あり方が基本なのです。子どもがどう育つかという結果(Have)ばかりにとらわれることなく、子どもの可能性を見る目を持つことが大切です。

その可能性を見る目を持つ大人であるというあり方によって、子どもがどう育つか?が決まるのです。


11

|

« “叱る”から伝わる“愛” | トップページ | 安心の場 »

コラム」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 誰として育てるか?:

« “叱る”から伝わる“愛” | トップページ | 安心の場 »